昭和文学会、その2

あらかじめ送られた発表要旨には物語内容に関する読みだけだったので、立教で伝えたはずの訓えが生きていないと落胆しつつも、現場に乗り込んで質問責めでイジメてやろうと考えていた。
なぜ平仮名表記が目立つのか、「★」とは何か、ジャンルに絡みつつテクストの文学性は如何に? などなどネ。
でもレジュメにも口頭発表にも前の2つについての答えは用意されていたので安心できたものの、文学性については問い自体が欠けていたのは残念だった。
高橋哲哉の感想を踏まえた、《われわれ読者もまた『1★9★3★7(いくみな)』の「二番煎じ」を書かねばならない。》以下の「結語」の言葉は気持悪すぎる!
こんなテクストの「二番煎じ」など読みたくもないし、そもそも辺見庸自身のこの作品自体、読むために時々自制心を必要とされるのが苦痛でもある。
この作品を知ったのは辺見庸が中心のフクシマがらみのテレビ番組であり、その時は父親との関わりや堀田善衛武田泰淳などの作品の1部が紹介されていたのがとっても面白かったものの、いざ辺見庸作品を読んだらだいぶ期待を外された。
「もの食う人びと」「眼の探究」などは桐原書店の会議を通し、教材としても価値のあるものだと知っていたけれど、「いくみな」は同じ作家が書いたとは思えないほど緩んだ文章でガッカリした。
仲井真クンも【資料4】で引用していた堀田作品についての言及箇所、《それが文学作品上、成功しているかどうかをうんぬんするよりも、『時間』においてこれがなされたという勇気に、一も二にもわたしは敬意を覚えるものだ。》が気になる。
堀田の「時間」が被害者である中国人の立場で語られているのを、「目玉の入れ替え」として評価されているのだけれど、「文学作品」としての評価をスルーして視点の逆転だけで評価していいのだろうか?
堀田善衛といえば、60年安保闘争を下敷きにして天草の乱を描いたとされる「海鳴りの底から」の講談調のゆる〜い長編小説の作者でもある。
「いくみな」では(加害者である日本兵の立場で書かれた)石川達三の「生きている兵隊」が厳しく批判されているのだから、辺見庸には文学的センスが欠けているわけではないのは伝わってくるにもかかわらず、「目玉の入れ替え」だけで「時間」が評価されているのは論理が不透明だ。
そもそも中国人であろうが日本人であろうが、野間宏「真空地帯」を典型とする被害者の立場で書かれたものは旧左翼的なもので、戦後しばらくは戦争被害者である国民に受け入れられたものの、時代の推移とともに忘れ去られ読まれもしなくなっているわけだ。
「いくみな」でも評価されていると思われる武田泰淳が未だに読まれているのは、多くが新左翼が提起した問題の核である(とボクは思う)加害者意識から発想されているからではないだろうか?
「生きている兵隊」が批判されているのはこの《加害者意識》が欠落しているからであり、泰淳の「審判」が《加害者意識》(無辜の中国人を殺したという罪意識)に執着・拘泥しているからであり、「いくみな」は父親は殺したのか? 自分だったら殺さずに済ませたのか? という問題を延々と引きずって行くテクストだ。
最初の単行本の「あとがき」に「戦争法案強行採決の日に」と付したり、「増補版のあとがき」で慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決」されたことに激しく拒絶反応して《歴史も本書もunending である。》と記しているのだから完結するはずもないのに、「完全版」として文庫を刊行しているのだから明らかな自己矛盾であり、こんなテクストのあり方は仲井真レジュメ(13ページ)の言葉を使えば「自家中毒」としか言いようがない。
戦争法案や慰安婦問題など、時々のジャーナリズムの話題に反応して書き足していたのでは切りが無くなるのは当然、いずれ「増補完全版」の類が出される勢いなのは笑えない。
察するに、辺見は「時間」の文学性(テクストの弛緩)を逃げ道にしながら、己のテクストの締まりの無さを許容したのではあるまいか?
プロレタリア文学運動が華やかなりし頃の、「主題の積極性」によって全てが許されるという居直りに拠ったのではないだろうか、だとすれば作家としての衰弱以外ではない!
このままでは仲井真クンが言うように「増補」されながら駄弁が垂れ流されるままだろうが、現状のテクストが必要としているのは「増補」ではなくて削除と推敲のはずだ。
発表後に話した際、仲井真クンも指摘していたように、例えば第6章「毛沢東三島由紀夫と父とわたし」は無くもがなだという見方には賛同する読者も少なくないだろう。
全体にわたって饒舌が過ぎるし、エポケ―(判断中止)の勢いに乗って散漫になり過ぎ、父や「わたし」が殺したのか殺すかもしれないのか、求心的に問い詰める姿勢を欠落させながら問題を現在の状況に短絡しつつ拡散して済ましている。
こんなダルなテクストの追随して「二番煎じ」を書かなければならないなどと言うのは、文学研究者としての姿勢がタルんでいるからと言うほかない。
沖縄出身者としての仲井真クンの姿勢が政治的には強健であることは十分伝わってきたものの、政治的に正しければ文学研究として優れているとは絶対に言えない。
刊行されて間もない作品を論じる危うさを不問にして、ジャーナリスティックな話題をも取り込んでしまったテクストを取り上げた蛮勇を評価する弁護人もいることだろう。
しかし、生々しい作品の評価は批評家に任せた上でテクストを鵜呑みにして研究対象にすれば済む、というのは研究者主体として恥ずかしい。
何でもあり、という姿勢は何(で)もないという状況を結果するしかなかろう。
その昔、批評と研究の差異をめぐった議論で、両者の《区別がつかないことと、区別をつけないこととは異なる。》と断言して安藤宏からも賛意を得たことがあったけれど、研究者も作品評価を批評家に任せる以前に己の美意識でテクストを評価し批判した上での分析を心掛けるべきだろう。

2人目の質問者が、レジュメで指摘された「じんじょう」というひらがな表記の意味するところの補足説明を求めたのは、7ページの理解では納得しにくい多数者の疑念を代表していたと思う。
もともと芥川賞受賞作品「自動起床装置」からしてひらがな表記が目立つ作家だと思うけれど、「いくみな」では異常なほどひらがなが溢れていて読みづらい。
一般に漢字表記が示す具象性を回避してひらがなで書けば、それだけ現実性が失われるものと考えられよう。
「じんじょう」に限らず一般には漢字で表記する言葉を全て漢字に置き換えたテクストと比べてみれば、現行テクストの指示性が増して意味が取りやすくなり、情景なら具体的・現実的に読者に伝わるだろう。
そうなることを避けるためにひらがな表記が選ばれた説明として、レジュメの分析は妥当だろうか?
レジュメには《ひらがなの「じんじょう」にひらくことで、まさしく「じんじょう」でない場を出来させようと企図している。(中略)ひらがなは「尋常」のリズムを「細部(ディテール)」へとぶつ切りにし、日本語(を使用する「わたし」)の自然なリズムやメロディーに違和を生じさせる試みである。》とリズムやメロディーの次元の問題だとしているのは賛同しにくいし、意味するところも分かりにくい。
吉本隆明著作集が刊行された際に、校訂を担当した川上氏(という名前だったと記憶する)が1つの言葉を漢字表記にしたりひらがなに開いたりしているのは何故かと問うたら、吉本が《意味の差は無いけれど、ひらがなを使う際はその時の気持を込めている》(記憶で記しているので不正確)というような応え方をしていたのを思い出す。
仲井真説の「違和を生じさせる」というのが、吉本の言うところの「その際の気持を込めている」というモチーフに重なるとすれば納得できるのであるが、どうなのだろう?
それにしても「いくみな」のテクストはひらがなに開き過ぎで、テクストの緩んだ印象を生じさせる要因ではないかと勘ぐってしまう。
情景・状況も父や私の問いも生々しさが薄れてしまっているのではないか、という印象を否定しにくいのだけれど・・・

@ ながくなってつかれてしまったので、これくらいでやめよう。
  書きながらヴェルディのオペラ「オテロ」を聴いていたのだけれど、主役のカウフマンが素晴らしいのは期待以上だった。
  最初は聴くだけのつもりだったけれど、冒頭を聴いていたらオケだけでワクワクさせられる演奏だったので、録画してあった放送大学の「walking〜」という英文学の番組をいくつか消去してオペラ全体を録画してしまった。
  オケはロイヤル・フィルだったと思うけど、指揮のパッパーノが才気あふれるリズムで引き込まれたからだ。
  「オテロ」の全曲演奏は、若くして亡くなってしまったミっちゃん(北村倫子)の遺品のDVDがあるにもかかわらず、パッパーノのリズムに引き込まれるように録画してしまった。
  この指揮者は昔ベルリン・フィルを振ったシベリウスの第2交響曲が実に魅力的だったのでそれ以来ごヒイキにしているけれど、ピアニストのアルゲリッヒに連れられて彼女が主催している別府音楽祭ではあまりパッとしない感じだった。
  それがカウフマンとも息がピッタリで、歴史に残る「オテロ」演奏ではないかという印象。
  クラシック音楽の話となると、仲井真クンと同じ沖縄出身でかつ立教大院の先輩であるイクオちゃん(新城郁夫)が思い出されてきた。
  那覇の呑み屋で2人して酔っぱらった時に、イクオちゃんが割り箸を指揮棒にしてハミングしていた曲は何だったろう?
  同じ立教のイクオちゃんより少し下のトノ(城殿智行)もクラシック・ファンだけど、ピアノを弾けるトノの言うことはチョッと専門的だったナ。
  「いくみな」のまねをしたわけじゃないけど、だらだらとながくなるばかりだからこれでやめる。