安部公房  三島由紀夫  徳田秋声

申し訳ないながら、気になりつつもずっと後回しになってしまった授業の記録メモ。
・12月3日 安倍公房「鉛の卵」レポは関内クン
  公房には無知なボクには、いろいろ教えてもらった。
  初期〜中期という時期区分も知らなかったけど、この期を特徴付ける諸要素が詰め込まれている作品とのこと。
  その1つの〈変形〉にも高野斗志美によれば2通りあり、これは自身が変形するパターンではなくて周囲が変形する系譜とのこと。
  レポによれば「砂の女」などの中期作品につながると言うが未詳。
  〈視点〉という特徴は興味ふかく、語り手が誰の〈視点〉で語っているのかを考えると面白くなるのは確か。
  それも「古代人」か緑色人種のどちらの〈視点〉かというだけでなく、双方の認識を持った語り手の〈視点〉もあるかと思う。
  〈SF〉という特徴そのものには殆ど関心が無かったものの、ちょうどテレビ番組「100分で名著」でスタニスラフ・レス「ソラリス」を取り上げていたのでSFに対する評価が変っていたところ。
  レスの小説は映画化されて「ソラリスの海」となったことや、監督が著名なタルコフスキーだということは関口クンが教えてくれたけれど、「鉛の卵」の犬が空を飛ぶなどの発想はツマラナくていけない。
  レポが〈SF〉は時空間の断絶が肝心だと強調していたと記憶しているが、空飛ぶ犬は断絶し過ぎで作品世界に入るジャマになる。
  〈セリフ〉という特徴では、公房作品はセリフの掛け合いでプロットが進むという藤村先生(レポの指導教員)の見解にも教えられた。
  戯曲も得意な公房の作法と関係あるのかな?
  特徴に〈寓意〉が上げられていないのが不審だったので質問したら、この作品で〈寓意〉を読むのは当たり前だからという、なるほど。
  とはいえ、レポが「東欧を行く」の言葉を引用しながら作品にディストピア性を指摘するのは〈寓意〉にハマっているネ。


・12月10日 三島由紀夫「美神」 レポは上野さん
  とんでもないカン違いでボクが準備していったのは「女神」、道理で(短い作品という指示に反して)長いと思ったヨ。
  幸い「美神」はむかし授業で取り上げたことがあったので、議論は理解できた。
  レポの読み方はハッキリしていて、「巧妙な語り」による事実に反する「主観」の真実性(リアリティ)を強調しているのだけれど、このリアリティ(ボクの言葉)をレポが〈反・真理〉という用語を使用するところに違和感が残った。
  せめて〈反・現実〉と言ってくれれば理解できるのだけれどナ。
  ともあれいつもながら三島を論じるには適したレポの資質が溢れる発表だったので、将来が楽しみ。


・12月17日 徳田秋声「爛」 レポは須藤クン
  レポの急な要望で発表してもらった。
  ボクの2人の師はあまり自然主義自体を研究対象にしていなかったせいか(三好行雄師は藤村論者としては研究史に残り、越智治雄師は近松秋江を絶賛していて嬉しかったけど)、秋声はあまり読んだことがなかったので須藤クンとの出会いは有り難いチャンスだった。
  もちろん須藤クンの指導教員である中丸先生が秋声の専門家であったり、『季刊 現代文学』の同人に加えてもらっていた頃、松本徹さんに秋声論を寄稿してもらった時に横浜中華街で飲食をご一緒した機会があるのだけれど、秋声そのものを読む余裕は持てなかった。
  「新世帯」はむかし自分の意志で、「町の踊り場」「死に親しむ」「風呂桶」などは教材として授業で取り上げた際に読んでいたものの、代表的な長編は買い集めたまま未読状態だった。
  法政大院に通い始めたのを機縁に「あらくれ」を読んで感心したのだけれど(上から目線ではなく読者目線から)、その他は読めてないままだった。
  「黴」は大昔の新潮文庫で持っていたけれど「爛」の方は自家には無し、現代日本文学大系(筑摩)の旧版を持っていれば良かったナ。
  なんとか初体験の青空文庫で読んだけど、長いのでプリントに一苦労(年賀状で四苦八苦した前哨戦となった)。
  発表の意図に沿って言えば、「爛」は「あらくれ」(やチョッとだけ読んだ「黴」)のように主人公に内的焦点化した語りではなく、いわば「明暗」のような焦点化ゼロを試みながら失敗した印象だった。
  秋声の作品史には無知なので勝手に漱石と比較しているだけなのだけど、徹底して主人公に焦点化「それから」から「明暗」へと至り着くプロセスとは異なり、「爛」の方が「あらくれ」よりも先行すると聞くと、秋声の方法意識の展開の仕方を論じる難しさを感じた。
  今回の発表が修論の要旨に重なるとすれば、その点を論じきれればとても面白い論になる予感がしている。