「漱石の話法について」  『宇大国語論究』第28号(2017・12)

@ 副題のとおりで、現場の先生方に役立ててもらいたいと考え、まとめたものものです。
  刊行から時が経っているので、ここに公表することにしました。
  前書きに当たる部分に記したとおりで、桐原書店の国語教科書のコラムに書いたものや、宇都宮大学の国語教育学会での発表をもとに詳述した次第です。
  既に現場の先生や研究者から好評を得ていますが、漱石の専門家の大先輩からは紙幅が無かった「明暗」が過大評価されていないかという危惧を寄せていただき、ご指摘の鋭さに意欲を刺激されました。
  遠慮なくご意見を寄せていただけると幸いです。


漱石の話法について
             ―文学教材の授業を豊かにするために―
   
                   関谷一郎

 これは論文ではない、というと「これはリンゴではない」と題するルネ・マグリットの絵画を想起する人も少なくないだろう。しかしマグリットの作品がいかにもリンゴそのものを写実したかのように見えるのに対して、この文章は論文のように見えるかもしれないものの、漱石の語りに関する概説文に近い。私には『シドク――漱石から太宰まで』(洋々社)に収録されている「それから」論以外にも「行人」論である「〈二〉対〈一〉の物語」(『解釈と鑑賞』二〇〇一・三)などの漱石作品についての論があるが、それらが先行研究にはない作品分析を目差しつつ独自性を求めたとすれば、本論は個別の作品についての分析でもないし、漱石の話法についてとりわけ独自性を追求しているわけでもない。
 編集委員をしている桐原書店の教科書に、漱石太宰治の話法についてのコラムを書いたり、宇都宮大学国語教育学会(二〇一七・三)で同様の内容を詳しく発表したりしたことがある。それらに対する好評に力を得たので活字に残しておき、漱石の授業をする際に役立てていただければと思いつつまとめたものである。論文でない証拠に(?)、漱石作品も先行研究も必要な箇所をツマミ読みしただけでほとんど読み直していないだけでなく、引用も手近な文庫本で済ましつつルビも省いている。
 なお、宇都宮大学での発表は「漱石に〈写実〉(ミメーシス)は可能だったか?」というテーマだったが、ここではコラムのテーマに即して話法を中心にまとめながら、読書案内にも配慮したい。話法だけに限ると関心の無い人にはキツイであろうから、物語内容についての論及も挟みたい。

 高校までの授業においては、漱石に限らず個別の作品についての分析・鑑賞が中心となっているのが現実である。限られた時間数の中で展開する以上それも当然ではあるものの、発展的な補足を試みるにしろ作家の実生活を追う程度のようである。漱石についても多くの教科書のコラム等がその類に止まっているのは、そのために費やされる貴重な授業時間が惜しいという思いを長年抱いてきた。作家の事実など、一人で伝記を読んでも事足りるだろう。中学では「坊ちゃん」、高校では「夢十夜」や「こころ」などを取り上げることが多いのであるから、「吾輩は猫である」から「明暗」に至る漱石作品の行程、特にその話法の変遷についてたどることを勧めておきたい。漱石が試みた多彩な語り方を知っておけば、漱石に止まらず龍之介や太宰その他の作家を読む際にも、話法という観点から作品にアプローチする道も広く開かれるであろう。ひいては日本の小説の歴史的展開を、語りという視野から眺める興味深さに至りつくことであろう。
大学の授業で語りの諸相について紹介すると、俄然強い関心を持ち始める学生も少なくない。ナラタージュ(語り)研究が日本に導入されて久しいながら、古い世代の研究者の拒否反応に阻害されたこともあり、すぐには大学の授業に浸透したわけではなかったという事情によるのかもしれない。作品が一人称で語られているか、三人称で語られているかという違いを覚えただけで、学生の作品理解が深められ拡げられていくのは驚きでもある。例えば一人称の語りが騙りに通じ、語られる内容が必ずしも事実ではないということを知っただけでも、学生の作品に対するアプローチの仕方が大きく変貌していくのである。物語内容ばかりを読んできた文学研究・国語教育の歴史に対して、ナラタージュ論は確かに新しい読み方とその楽しさを提示したのだ。
高校の教科書に取り上げられる昨品で例示すれば、太宰の「畜犬談」や森鴎外の「舞姫」の一人称の語り手の記すところには、意識的なあるいは無意識なウソ・あるいは敢えて語ろうとしない空所があるのではないかと疑ってみると、テクスト(本文)の読み方がにわかに変ってくるはずである。それぞれの作品がなぜ語り手に都合よく展開して行くのか、と疑って読み返すと語り手の意図や無意識が見えてくる、ということである。漱石に戻って言えば、「こころ」の「私」(先生)の語りには(無)意識的なウソは無いのか? 全てを語っているようで隠したものは無いのか? と疑い始めると読み方の差異が現れて読書(授業)がいっそう楽しくなるのではあるまいか。しかしナラタージュ論が受容され始めた一昔前に悪用されたような、学生の「私」と先生の妻(静子)との間に週刊誌的ネタを読んだ小森陽一秦恒平などの恣意的な読みは、ハシャギ過ぎとして慎まなければならないのは無論の事ではある。

漱石の作家活動がわずか十年チョッとだけであるにもかかわらず、その作風・話法には同じ作家のものとは思えない変貌ぶりが見て取れる。例えば高校まではあまり読まれることのない初期の「薤露行」や「幻影の盾」が、「坊ちゃん」や「こころ」の書き手と同じ作家の手になるものとは、にわかには信じられないことであろう。その違いは「高瀬舟」や「山椒大夫」の作家イメージが、「舞姫」の文体と作品世界に連続して行きにくい印象よりも、ずっと大きなものと感じられるのではないだろうか。
長年にわたる鷗外の作家活動の初期においては、「舞姫」を始めとするドイツ三部作が擬古文で語られていたものの、二十年近く経って文壇復帰した際には完全な口語文体だった、という見やすい開きがあった(中間に位置する「そめちがへ」の問題は、議論が専門的になるので無視しておく)。森鴎外の作家活動はそれぞれの時期において、文体の上では当初から安定した(単調な)ものだったと言えよう。一方の漱石の場合、擬古文体による右の二作を含む『漾虚集』の七編中、他の口語体の五編には一人称体も三人称体も試みられており、漱石は作家活動を始める際に様々な実験を試みていたと言える。ちょうど後の太宰治が最初の作品集『晩年』において、小説の形式から文体など種々な面からの実験をしたようなものである。(1)両者は方法意識の強さにおいて、他の作家たちから抜きん出ているのだ。
『漾虚集』諸作の模索が一方で「吾輩は猫である」の連載と並行していた意味は、内田道雄氏による傑出した漱石論(『明暗まで』など)を参照してもらうことにして、高校生にも参与できる問題に移りたい。『漾虚集』の実験を踏まえつつ、初期の漱石の創作の主線が「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などの一人称による語りにあった、というのが定説である。同じ頃の「草枕」も含めて冒頭部分を確認しておこう。
吾輩は猫である。名前はまだない。》
《親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。(略) 
   おやじは些ともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔負にしていた。》
《山路を登りながら、こう考えた。
   智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。(略) 
   余の考がここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏みそくなった。》
例えば「坊ちゃん」の原稿用紙には修正がほとんど無いことからみても、一人称による語りが漱石には手慣れたものであったことが窺われる。後期の「道草」や「明暗」の原稿が、判読不可能なほど何度も手を入れられているのと対照すれば、その差異は一目瞭然である。典型的な三人称小説(2)を目差したように見える二作品(特に未完の「明暗」)が四苦八苦しながら生み出されていたのと比べると、一人称による語りが漱石にとって極めて自然な選択であったことは否定しがたい。それは太宰にも通じることであるものの(3)、太宰が終生三人称の小説に成功しなかったのに比して、漱石が専門の作家になってからも三人称小説を試みている点では、両者は決定的に異なるのである。漱石は敢えて困難に臨んだと言えようが、その試行錯誤をたどるのが以下の叙述となるだろう。既に論じたことのある作品については控えめな言及に止めたい。

作品に即して説明する前に、用語についてお断りしておきたい。長らく「視点人物」という言葉が流通してそれなりの有効性を発揮していたものの、限界も露呈していたのは否めない。例えば「三四郎」で視点人物として三四郎を位置付けると、種々の点で矛盾が生じてしまう。一つは三四郎には自覚しえないことまで語ってしまう観点、端的には三四郎を外側から相対化する観点が現れる。
《あの女を見て、汽車の女を思い出したのが矛盾なのか、それとも未来に対する自分の方針が二途に矛盾しているのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾しているのか――この田舎出の青年には解らなかった。》(二)
「この田舎出の青年には解らなかった」は言わずもがな、どうみても余計なお世話である。もう一つは致命的で、最後の短い第十三章の前半分は当の三四郎が現れないにも拘らず、その他の人物たちの言動だけが語られている。これでは「視点人物」どころの騒ぎではない。
この矛盾を解決するために、(ガラにもなく?)便宜的にジェラール・ジュネットの用語を使用したいと思うのであるが、最近では一般的に流通するようになっているという強みに頼りたい。教育現場に即すために、できる限り新しい理論・術語を使わずに済ませたいものの、旧来の用語では説明し難い実例があるかぎり発想を変えざるをえない。ジュネットではもっとも広く読まれている『物語のディスクール――方法論の試み』(水声社)によると、当座の問題である「視点」はあっさりと否定された上で、代って以下の三つの用語による分類が主張されている。(4)
「焦点化ゼロ」――ニュートラルな全能的視点による客観小説であり、時間・空間に限定されることなく、すべての登場人物を外側からも内側からも語り得る。漱石が種々の方法を試行した後、最後にこの方法で徹しようと試みたのが「明暗」だと考えられる。
「内的焦点化」――従来の「視点人物」による語りであり、特定の人物が見聞した外的世界と、その人物の内面世界が語られる。テクスト全体がこの方法によっているのが、「吾輩は猫である」などの一人称の小説であり、三人称小説では「それから」がこれに当るであろう。ちなみにジュネットは人称という用語を避けているが、ここでは分かりやすくするために、既に流通している人称の差異に沿って整理する便宜を取った。
「外的焦点化」――カメラ・アイのように、すべての登場人物を徹底して外側からしか語らない方法。一つのテクスト全体をこの方法で貫いた横光利一「蝿」がその典型であるが、漱石にはその種の作品は無い。
もとより「内的焦点化」が複数の人物に移動する場合も多いので、「それから」のように焦点化が基本的に主人公代助一人に限定される場合を、ジュネットは「固定焦点化」と呼んでいる。分類好きな欧米人らしく(?)ジュネットもむやみに下位分類を増やして読者に負担を強いているが、理論は簡明をもって良しとしておきたい。正確を期して分類を細かくするほど、実用からは遠ざかるものだ。(5)
また理論や術語を漱石のテクストに当てはめようとしても、しょせん後付けである限り網羅的には説明しきれないことは自明であろう。《世界(テクスト)を覆い尽くす言葉(理論)などない》(関谷一郎)という名言が示す通りである。ましてや日本語の文学テクストにフランス文学の理論を応用しようとしても、文化的な障害が立ちはだかることはくり返し強調されてきたとおりである。要は実用性を優先した基本を見失なわないこと、これである。

吾輩は猫である
 周知のとおり猫の視野からだけの語りには限界が多いので、登場人物の内面を語りたくなった挙句に猫が「読心術」を獲たという無茶振りを前提にして、猫が苦沙弥の心内を語り始めることになる。
吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人(苦沙弥――註)の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、この位の事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。》
                      (九)
 猫という語り手を設定したことによる、語り得る範囲が限定されてしまう窮屈さを脱するために「読心術」を獲得するという無理には、単に猫の視野が狭いということだけでなく、人物の内面を語らずにはいらないという方法的要請があったはずである。一人称に由来する限定を免れる模索が試みられることになるゆえんである。

虞美人草
朝日新聞の専属作家となった第一作が「虞美人草」であるが、これは「猫」などとはうって変わって三人称で語られる。「二百十日」や「野分」の延長上に書かれたものであろうが、いかにもぎこちないその語り口調は当時から読者を悩ましたであろう。専属作家という立場を過剰に意識しすぎて肩に力が入りすぎたのか、文体も物語内容も実に取っ付きにくく、歴史的な失敗作と言うほかない。苦労してまで読むことはない、と忠告しておきたいほどヒドイ仕上がりとなっている。
《春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫いて、烟る柳の間から、温き水打つ白き布を、高野川の磧に数え尽くして、長々と北にうねる路を、大方は二里余りも来たら、山は自から左右に逼って、却下に奔る潺湲の響も、折れるほどに曲がるほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。》(一)
俳文を狙ったのか、自身の句を織り込みながら文飾を尽くした長文であるが、〈写生〉にもなっていないし〈写実〉からも程遠くて読者には伝わりにくい、自己陶酔的な語りでしかない。読者を無視して表現を工夫したのであろうが、文飾が価値を生じさせるほどのレベルにも達せずに自己満足しているだけである。「幻影の盾」などの表現を意識した結果なのかもしれないものの、こんな文飾を喜んだのは背伸びして分かったフリをしていたペダンティックな読者だけであろう。大衆向けの新聞小説を目指した割には、ヒネリが効きすぎて意味の取りにくい言葉を頻出させて読者を裏切っていると言うほかない。
勧善懲悪という大衆にアピールするテーマを展開したのであろうが、藤尾母子が「悪」を担いきれていないのでカタルシスの無い仕上がりになってしまい(6)、この点でも読者の期待を裏切っている。藤尾を「悪」だと誘導しているのは、引きこもり男の甲野と彼に共感している語り手、並びにその双方を支えている漱石の倫理と美意識であり、それが必ずしも読者の賛意を得られてはいない。「藤尾を殺さないで」という読者からの手紙も寄せられて漱石を困らせたという通り、藤尾が表象する近代性・女性の解放に共感し支持する読者層が存在したのも当然だった。藤尾母子や小野が執着する己の欲望を、「悪」と決めつける論理も倫理も復古的で薄弱というほかない。(7)
などと不満を並べていると物語内容に偏ってしまうので、話を話法に戻そう。
《「おい、君、甲野さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適した細い体躯を真直に立てたまま、(略)
「いつの間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近君がいう。》(一)
登場人物に「さん」や「君」を付けて指示する語り手の在り方は独特であり奇異である。もちろん西洋的な全能的視点とは異なり、この人物たちに近しい身体性を感じさせる語り手である。もちろん作中に身体を現すことはないが、倫理観や美意識を具えているのでニュートラルな立ち位置にいるわけではない。客観小説なら「甲野」や「宗近」と距離をとって指示するところであるから、「さん」や「君」付けは登場人物に対する語り手の親しみが読み取れる。女性にはこの種の敬称は付されないから、語り手の男性性まで匂わせている。「三四郎」まで尾を引くこの種の敬称付けは、「二百十日」や「野分」を介しつつ長期にわたった「猫」の話法の名残りなのかもしれないが、この件についての先行論を探す余裕が無い。もちろん「猫」の場合は猫という身体を持った語り手が抱く、苦沙弥家を訪れる人たちに対する親しみの表現であり、「三四郎」の場合野々宮や広田に「君・さん・先生」が付されるのは、主人公・三四郎の意識の投影であり、ニュートラルな立場の語り手はこの種の敬称を省いている。
《博士は学者のうちで色の尤も見事なるものである。未来の管を覗く度に博士の二字が金色に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸っている。時計の下には赤い柘榴石が心臓の焔となって揺れている。その側に黒い眼の藤尾さんが繊い腕を出して手招きをしている。凡てが美しい画である。》(三)
この部分は小野の内面に焦点化した語りであり、小野に意識された藤尾だから「さん」が付いているのであって、語り手が「藤尾さん」と指示しているわけではない。語り手にとって藤尾はあくまでも「藤尾」である。小夜子も同然で、《作者は小夜子を気の毒に思う如くに、小野さんを気の毒に思う。》(九)とあるように、小野には「さん」が付いても小夜子はあくまでも「小夜子」である。この一文には「作者」を名乗る語り手の、「気の毒」と感じる気持がストレートに表現されてもいるが、女性の中では糸子だけは例外だ。 
《「欣吾(甲野の名〜註)さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気が付いて、羽二重の手巾を膝の上で苦茶々々に丸めた。》(五)
基本的には「糸子」であるものの、「さん」付けする時には語り手のからかい気味の愛情が示されているようである。

「坑夫」
 前作「虞美人草」で種々の大失策を犯したので、その真逆を行って修正する結果となったのが「坑夫」ということになろう。徹底して家出青年である「自分」の一人称を貫いた語りであり、「固定」した「内的焦点化」の典型ということになろう。その徹底ぶりは前代未聞というべき水準なので、中村真一郎ジョイスの「意識の流れ」との近接ぶりをくり返し強調されたわけである。二人の女の板挟みから逃げ出すために家出して鉱山に行き着くという青年の話だから、その板挟みのただ中で苦悩する男という大衆向けのテーマを担う小野を登場させた「虞美人草」と共通するが、「坑夫」の物語内容は家出後の男だけの世界のため面白さに欠けるのは致し方ない。ただ話法に注目して読むと〈方法を読む〉楽しさが十分に味わえるので、冒頭から飽きるまで所まで読んでみることを勧めておきたい。(8)田舎者を意味する「赤毛布(あかげっと)」と表記される北関東の青年が、さつま芋を評価する「この芋(えも)は好芋(えええも)だ。」というせりふが出てくる所までは読んで笑ってもらいたい。

三四郎
 田舎から上京する青年が車内で見聞する新鮮な体験が語られる第一章は、ほぼ三四郎に内的焦点化されているものの、第二章になると「虞美人草」のような語り手が現れるのは前述のとおりである。他の章から拾ってみれば、
三四郎は他の文章と、他の葬式を余処から見た。もし誰か来て、序に美禰子を余処から見ろと注意したら、三四郎は驚いたに違いない。三四郎は美禰子を余処から見る事が出来ない様な眼になっている。》(十)
 三四郎から十分な距離をとりつつ主人公の相対視を続けるわけだから、語り手のコメントが現れるたびに読者は三四郎に同一化して作中を生きるという読み方が殺がれてしまう。それさえなければと惜しまれる作品であるが、語り手の設定について漱石がまだ「虞美人草」までの語り方から脱けきれず、揺れている段階ということであろう。ジュネットも類似の指摘をしていているのは、語りの困難さが察せられて余りある。
 《主人公の経験を「三人称で」語ったかと思うと、今度はそれらの経験に語り手として注釈を加えるために、その都度いかにも調子外れな介入を何回となく繰り返さなければならないということ――語り手が、自分の語る「物語内容」にいつでも注釈を添えることにより、奥深いところでその「物語内容」の正当化を強く望んでいる場合、おそらくこれ以上にわずらわしいことはあるまい。》(前掲書二九四頁) 
 ジュネットの論はこの「わずらわし」さを逃れるように三人称が「私」に転じてしまうという指摘が続くが、漱石の場合は次作「それから」で主人公に対する内的焦点化に徹することで、物語の緊張を強化する方法を選んだと言えよう。しかし三四郎とは異なり洋書を読む知的レベルの代助が、語り手の視野も兼ねて「牛と競争をする蛙」(六)でしかない日本社会の現状を批判するものの、己自身を見る眼は三四郎のレベルから隔たってはいない。三千代からも「誤魔化し」(同)という言葉で、自己欺瞞を見抜かれている始末である。

「それから」
 主人公・代助に内的焦点化しつつ時おり「焦点化ゼロ」に当たる話法を採るものの、強いテンションで読者を引き込んで行く方法的達成は見事と言うほかない。自己の内なる「自然」の賛美によって、白樺派の文学青年など若い読者の心をつかんだわけであるが、「三四郎」とは異なり語り手がニュートラルな立ち位置にあるので邪魔にならない。しかしその分、読者が代助に対する一体化が過ぎると、彼の自己閉塞的で未熟な在り方を相対化する観点を失うことになる。(9)
 宇都宮大学の学会で同日発表された小池清治氏の断案は、読み返すたびに感銘を覚えながら納得させられる。
 《夏目漱石は、「三四郎」まで、あれこれ日本語の文体の可能性を探り、彼の文体を確立し、『それから』以後は、便宜的にいえば、どう書くかということよりも、何を書くかということに集中していく。したがって、『それから』以後は、基本的には文体の変化はない。》(『日本語はいかにつくられたか?』ちくまライブラリー→ちくま文庫
 小池氏の言う「文体」は小論よりもっと広い視野で使われているものの、こと話法に限ってもそのまま当てはまっているわけである。漱石は「それから」でようやく一人前の作家になれた、ということであろう。日本語学者という範囲を超えて、文学研究にも積極的な論を展開してきた小池氏の、少なからぬ漱石テクストの分析は見逃すことができない。

「門」
 冒頭から代助の後身である宗助に内的焦点化してそのまま続くのかと思わせながら、間もなく宗助が不在の場面になることでも明らかなように、「三四郎」や「それから」とは大きく変化している。妻の御米や弟の小六にも内的焦点化していくので、「それから」の達成に基づく「不定焦点化」(ジュネット)に当たる方法とも考えられる。代助とは異なり、宗助の内的ドラマのテンションが低いので、彼に焦点化し続けると単調になるのを避けるため、小六たちが要請された結果「不定焦点化」になったと考えられる一方で、「焦点化ゼロ」の方法と理解する余地もある。言ってしまえば「不定焦点化」と「焦点化ゼロ」の近さであろう。その冒頭部、
 《宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ胡坐をかいてみたが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつく程の上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肘枕をして軒から上をみると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寐ている縁側の窮屈な寸法に較べてみると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでも大分違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日を少時見詰めていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寐返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。
  「おい、好い天気だな」と話し掛けた。細君は、
  「ええ」と云ったなりであった。宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。(二文略)
   二三分して、細君は障子の硝子の所へ顔を寄せて、縁側に寐ている夫の姿を覗いて見た。夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老の様に窮屈になっている。》
引用が長くなったのは、ここで詳しく「焦点化」を検討しておきたかったからである。最初の段落が順に「好さそうな」「聞えて来る」「自分の寐ている」「思いながら」「眩しくなった」と全て宗助に「内的焦点化」して彼の立場から語っている。ところが細君との会話が始まると《話がしたい訳でもなかったと見えて》と「見えて」が割り込んできて、《話がしたい訳でもなかったので》ではない。「見えて」いるのは明らかに宗助ではない、全能的視点の語り手である。つまりは「焦点化ゼロ」の語りというほかない。
(二文略)の後では「夫の姿」「夫は」と語られるので、宗助を「夫」と意識している御米に「内的焦点化」した語りということになろう。ところが御米に焦点化されるのは続く二つの文までで、すぐに宗助に焦点化されているような、あるいはゼロ焦点のような曖昧な語り方になる。
《宗助は仕立卸しの紡績織の背中へ、自然と浸み込んで来る光線の暖味を、櫬衣の下で貪る程味いながら、表の音を聴くともなく聴いていたが、急に思い出した様に、障子越しの細君を呼んで、(略)》
暖か味をシャツの下で味わっている宗助に焦点化していながら、「思いだした様に」と「様に」が付されるのはゼロ焦点の語りであろう。同じ一つの文であるのに、焦点が宗助からゼロに切り替わっている。漱石に言わせれば大きなお世話だということになろうが、焦点化を厳密に、あるいは強引に当てはめてみただけであり、この前後の部分はしばらく「焦点化ゼロ」の語りが続いていると押えて良かろう。宗助が「近江」の「近」の字に確信が持てずに御米にたずねるというやり取りになるのであるが、宗助は《冗談でもなかったと見えて》と「見えて」が付いたり、御米も《近の字はまるで気にならない様子で》と外から見た「様子」が語られるのであるから、ゼロ焦点と理解できよう。
夫婦の会話は、やがては宗助の座禅修業にも通底していく「神経衰弱」だろうというところで着地するのであるが、その後は、
《針箱と糸屑の上を飛び越す様に跨いで茶の間の襖を開けると、すぐ座敷である。南が玄関で塞がれているので、突き当りの障子が、日向から急に這入って来た瞳には、うそ寒く映った。》
と続き、「這入って来た」の「来た」が示すとおりに御米
に内的焦点化した語りに移るものの、すぐに御米から宗助に内的焦点が代って語られる。宗助が出かけるとまた御米にバトンタッチされるので小六が《這入って来た》となるものの、今度は内的焦点が小六に入れ替る。
 《(略)嫂の後について、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼をつけて、
  「相変わらず精が出ますね」と云ったなり、長火鉢の前へ胡坐をかいた。嫂は裁縫を隅の方へ押し遣って置いて、小六の向へ来て、一寸鉄瓶を卸して炭を継ぎ始めた。》
 「嫂」という呼称は小六のものであり、「眼をつけて」「来
て」も焦点は小六である。このまま「一」は最後まで小六焦
点で閉じられると言ってよかろう(微妙にゼロ焦点的な箇所
も含む)。
 かように「門」は「三四郎」「それから」で主人公に内的
焦点化した延長上で、宗助を中心に御米と小六の三人に焦点
化しつつも、ニュートラルなゼロ焦点からの語りも挟まれて
いる。テクスト全体をゼロ焦点と見る立場もあり得るのは、
内的焦点化される人物を三人にしたために、両様の理解が許
容されることになったからである。先に述べたとおり、「不
定焦点化」から「焦点化ゼロ」までの距離は近い。主人公を
他の登場人物の観点から相対化しつつ語らせた時に、漱石
「明暗」の可能性を手にしていたと言ってよいが、不思議に
後期三部作は基本的には一人称語りに戻ることになる。

彼岸過迄
 修善寺の大患胃潰瘍出血)から回復した後、体力が万全でないので気ままに彼岸過ぎまで連載するという表題の注釈に言うように(10)、モチーフのゆるさが作品そのもののたるみとなって結果しているので、敢えて読むほどのものではない。話法としては、前期三部作「三四郎」「門」「それから」が、基本的には三人称で呼ばれる主人公に内的焦点化することを試みたのに対し、「彼岸過迄」の後半から「行人」「こころ」という後期三部作は一人称の語りに戻っていく。手慣れた初期の一人称語りに戻してみたら書きやすいので、そのまま「こころ」まで通してしまったということか。初期三部作が眠りからの覚醒から始まるのに比して、後期三部作の語り手は全て視野の限られた青年である。「こころ」の世間知らずの青年に当初伏せられていた「先生」の秘密がやがて明かされていくように、青年には見えなかった他者の秘密が開示される(目覚める)、というパターンが後期三部作だという括り方も可能であろう。
 細かく言えば「門」の冒頭部の宗助は御米に「寐やせん、大丈夫だ」とは応えるものの、己の負っている問題の解決を先延ばしにしたまま、安井の出現の可能性まで意識の覚醒は訪れない。「それから」の代助が「アンニュイ」(八)からの救済を三千代に対する倒錯した愛に求めるのも、覚醒の試みということになろう。ただ代助が破滅の道を行くような形で閉じられるのとは異なり、宗助は安井との再会が避けられると元の「小康」(結末部)に居座ることになる。三四郎も世間知らずであり、美禰子の秘密が明かされたまま放置される点では「彼岸過迄」以下の青年と共通してはいるが、一人称で内面が語られることはない。
 「彼岸過迄」は話法の観点からすれば、前半の三人称形式の部分では基本的には敬太郎に内的焦点化されるものの、「雨の降る日」の章の「二」の途中から千代子に入れ替る。次章の「須永の話」では敬太郎に戻るものの、「三」からは章題の通り須永の一人称語りになり、「十三」で一時敬太郎に内的焦点化される部分を挟みながらも須永の「僕」の語りに戻っていく。最終章も「僕」という一人称語りであるが、これも「松本の話」という章題が示す通り松本のことを指している。全体として焦点化される人物が次々と代って行くところが新味であろうが、小説としての面白みには欠ける。エピローグの「結末」では敬太郎に内的焦点化されて作のモチーフが説明されているが、詰まらない小説の弁解を聞かされる思いになる。読むなら何よりもまずは完成度の高い「それから」、続いて「道草」「明暗」だ。

「行人」
 一郎という知識人の「狂気」から強いられる「謎」を、弟である二郎という青年が解明しようとして挫折し、代って一郎の友人であるHが外側から説明しようと試みた手紙(である以上これも一人称)で終るという内容。「狂気」は内側からは語りがたいということから、外側から弟に語らせようとするものの、理解の及ばない弟にはしょせん無理なこと。弟である「自分」の語りに代って、一郎に対する理解も同情もあるHが、身近で一郎に接した見聞が語られることになる。
若き日の吉本隆明は一郎の苦悩を「わが事のように読んだ」そうであるが、同じ一郎を名乗る関谷にはインテリの自己閉塞というテーマにはまるで共感できないので、二郎の立場からこの作を論じたことがある。これも「彼岸過迄」同様、読まなくても済む作品だと思うので勧めない。

「こころ」
 ご存じのとおり「上」「中」が学生の「私」、「下」の「私」が「先生」の一人称語りで徹底している。前作「行人」の一郎の自己閉塞を軽症な形で引き継ぎながら、「明治の精神に殉死する」などと他者には通じ難い思い込みで自己完結する「先生」の在り方が理解できないのは、学生の「私」だけではない。「明治の精神に殉死する」という発想が他人には伝わりにくいのは、それが自己完結的な〈歌〉でしかないからだ。柄谷行人乃木希典の殉死した明治四五年と、三島由紀夫が自刃した昭和四五年を重ねて考察していたが、三島の「檄」も言うまでもなく「先生」の不可思議な言葉と同じ〈歌〉でしかなく、同じ志を抱く者たちに訴える行動の指針などではありえない。

「道草」 
《健三が遠い所から帰ってきて駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍しさのうちに一種の淋しみさえ感じた。
   彼の身体には新しくあとに見捨てた遠い国の臭がまだ付着していた。彼はそれを忌んだ。一日も早くその臭を振い落とさなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気がつかなかった。》(冒頭部)
《娯楽の場所へもめったに足を踏み込めないくらい忙しがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断ったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚いた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っていることには、まるで気がつかなかった。》(三)
 基本的に健三に内的焦点化しつつも、右の二つの引用の最後の文に明瞭なように、「三四郎」と同じく時おり主人公の健三を批評する全能的視点が顔を出す。しかし「三四郎」とは異なり語り手の存在感が強く現れることはなく、ニュートラルな立場から妻のお住にも内的焦点化されて語られることも少なくない。
《彼はまた平生の我に帰った。活力の大部分を挙げて自分の職業に使うことができた。彼の時間は静かに流れた。しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので澄ましていた。それが健三には妻にはあるまじき冷淡としか思えなかった。細君はまた心のうちで彼と同じ非難を夫の上に投げかけた。》(九)
 夫婦の食い違いを素材にしているので「門」が想起されるだろうが、それも当然で後期三部作に共通する一人称の閉塞性を通過した後、「道草」はそれら三作を飛び越えて「門」に直結しているのだ。「こころ」と次作「道草」が素直に連続しないのもそのためだと言える。つながっているのは健三が「先生」や一郎と同じ、高度なインテリとしての閉塞的傾向を示している点である。
 宗助は健三のようなインテリ層ではない分、健三ほど他者から孤立しているわけではない。逆に健三は右の引用のように妻から相対化され、義父からも動揺させられる。つまりは実生活という〈空間〉において妻から相対化され、義父が突きつける過去という〈時間〉によっても相対化されるのである。健三という漱石自身と等身大の主人公を設定し、彼を〈時間〉と〈空間〉の双方から相対化する試み無しには、「明暗」の相対世界は構築しえなかったということであろう。
 《小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。(略)御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
  「本当に難有いわね。漸くの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
  「うん、然し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。》(「門」末尾)
 《「まあよかった。あの人だけはこれで方がついて」
  細君は安心したと言わぬばかりの表情を見せた。(略) 
  「かたづいたのは上部だけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」
  細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
  「じゃあどうすればほんとうにかたづくんです」
「世の中にかたづくものはほとんどありゃしない。一ぺん起こったことはいつまでも続くのさ。ただいろいろな形に変わるからひとにも自分にもわからなくなるだけのことさ」
  健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
  「おおいい子だいい子だ。お父さまのおっしゃることはなんだかちっともわかりゃしないわね」 
  細君はこう言い言い、いくたびか赤い頬に接吻した。》
                   (「道草」末尾)
 共に冒頭部に回帰する方向を暗示している結末ながらも、健三の「苦々し」さは「小康」を得た宗助の安堵感とは全く別次元の話だと言ってよい。己を根底から揺すぶる〈過去〉(宗助が御米を奪った相手である安井)(11)が近辺に現れる可能性がなくなった安心感に浸れる宗助に対して、健三の〈過去〉は解消しようがないからである。宗助の〈過去〉が一回性のものであるのに比して、健三の〈過去〉はもの心がつくまで育てられた長くて重い〈時間〉であり、現在の健三の自己同一性の核になっているからだ。健三が冒頭部で「帽子をかぶらない男」(島田)に出会って動揺を隠せず、やがては養父であった島田を拒否できぬまま、法的には済んだはずの金銭を与えざるをえなくなるのはそのためである。「人さえ来れば金を取られるに決まっているから厭だ」(九六)とぼやきながらも、健三が(養母であるお常にまでも)金銭を与えてしまうのをお住が「馬鹿らしい」(同)と考えるのも当然ではある。しかし健三は縁者に金を与えることによって己の核(同一性)を強化・補填しているのであり、〈過去〉を否定することは己自身を否定することになってしまうのである。その間の事情がお住に通じるわけもない。《実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。》(九一)というように、幼時から確たる居場所(アイデンティティ)を持てなかった健三は、「厭」でも金を与え続けなければ自分自身でいることができないのだ。
 
話法についての論及が後回しになったが、先に「門」の語りはニュートラルだと記したものの、正確にはそうとも言い難い箇所が無いわけではない。夫婦の「過去」を明かした「十四」に、次のような記述がある。
《彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪いた。同時にこの復讐を受けるために得た幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼等は鞭たれつつ死に赴くものであった。》
擬人化された「自然」が人物たちの運命をつかさどるという考え方には、語り手の世界観が読み取れよう。最終章で、安井がもたらした「不安」に怯えることについて、《それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。》(二十二)と語られる「天」も同様である。「道草」の語り手は、「三四郎」のそれのように健三が「気がつかなかった」ことを指摘できるだけでなく、「自然」や「天」については「門」の語り手と同じ世界観を抱いているようである。
 《こういう不愉快な場面のあとにはたいてい仲裁者としての自然が二人のあいだにはいってきた。二人はいつとなく普通夫婦のきくような口をききだした。
  けれどもある時の自然はまったくの傍観者にすぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合わせのままで暮らした。》(五五の冒頭)
 主人公が「気がつかなかった」ことまで語ってしまう点では、
「道草」は「門」よりも後退しているとも見えるが、こうした
試行錯誤を経ることによって「明暗」の達成があるわけである。
お延の夫婦を中心に焦点化しつつも、津田の妹であるお秀など
の周辺人物にも焦点化した相対世界は迫真的ではあるものの、
ついにゴールを迎えることができなかった。話法の上でも未完
成の要素を抱えながらも、「明暗」が前代未聞の達成であるこ
とを自分の目で確認されんことを勧めて終りたい。

《註》
(1)『晩年』では三人称形式を含めて、コラージュ・民話・私小説歴史小説メタフィクションと、実に様々な方法が試みられていて興味深い。
(2)三人称小説における語り手も「私」その他の自称をしないだけで、一人称ではないかという疑問を抱いたり混乱する人もいるかもしれない(実は私自身も当初は「三人称小説」という呼称に強い違和感を持っていた)。後に紹介するジュネットも『物語のディスクール』で言うように《どんな語りも、定義上、潜在的には一人称でおこなわれている》(二八七頁)に違いない。ここでは広く、語り手が自称しない小説の別称だと受け止めておけばいいだろう。
(3)漱石や太宰に限らず、日本の作家にとっては一人称による語りが自然であり、いわゆる「神の視点」による語りが馴染まないのは、「大鏡」「増鏡」などの歴史物語も百歳以上の長命な登場人物による見聞として、身体性を具えた語り手によって語られていることを考え合わせると興味深い。一神教の西洋とは異なる多神教の日本の文化的条件に関わるのか否かという問題は、学生時代からの解けない難問である。
(4)土田知則・神郡悦子・伊藤直哉『現代文学理論』(新曜社)のまとめ方を参考にした。ジュネットの論自体は「失われた時を求めて」論でもある上に、未知の作品についての論述も多くて整理しづらいので、お勧めの本である。本書の著者はそろって海外文学の専門家であり、その昔ほとんどが日本語しか解せない研究者が人心を惑わした『読むための理論』(世織書房)などとは異なり、信用できるので推薦しつつ頒布に寄与しているつもりである。
(5)宇都宮大学の学会でも、松本修氏からジュネットを基にした氏自身の用語が紹介されたものの、ただでさえ細分化が過ぎるジュネットの用語を言い換えて使用すると、混乱を招くだけだと危惧する。その昔、松本氏が提出した修士論文は、当時紹介され始めたばかりの欧米の新理論を歴史的に整理してソツなくまとめ上げたもので、その目配りの広さと理解の深さで衝撃を与えたものではある。ただし面接試験の際に、理論の歴史的展開にゴールがあるかのような考え方に疑義を呈しておいたことを忘れない。次から次へと現れては消える文学理論の歴史の果てに、最終的な結論を想定したところで到達点などあり得ない、というのが私の頑固な考え方である。
(6)「善」として設定されているらしい甲野や宗近が「悪」を懲らしめるという構図が意図されているものの、「善」が「悪」を殺した形になっているわけではない。藤尾が自殺したという説もあるようではあるものの(NHKのテレビ番組で小森陽一が、テクストに「見縊る」(九)という言葉が出て来るから藤尾は首を縊って死んだのだ、などとお得意の放言をしていたのは初歩的・恣意的な誤読で恥ずかしい限り)、死因を探しても意味が無いし無駄手間である。いきなり引き合いに出すのも勝手ながら、三島由紀夫「剣」と同じく敢えて言えば憤死であり、物語の必然(流れ)として藤尾は死んで行くのである。
(7)こうした人物の配置が「浮雲」に相似している興味を満たしてくれる先行研究があればと思うものの、怠惰にして未詳である。
(8)『シドク』にも概説的な「抗夫」論が収録されているが、元になったのは宇都宮の某看護学校における授業内容である。
(9)『シドク』所収の「それから」論を参照されたい。
(10)「『彼岸過迄』に就て」には、以下のような記述がある。
《「彼岸過まで」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。》
 形の上では「行人」も「こころ」も、短篇が相合して長編をなしている。
(11)《これが宗助と御米の過去であった。》と閉じられる「十四」に詳しい。
(せきや・いちろう 東京学芸大学名誉教授)