やまなし文学賞  大橋毅彦  石原千秋

「やまなし文学賞」と言っても知ってる人は少ないだろう、小説部門もあるものの過去25回の受賞者が全国区の作家になっていないように、しょせん地方のショーでしかない証拠だから。
しかし珍しく研究・評論部門が設けられており、とくに研究に照明が当てられているところが貴重であり、継続して欲しい賞である。
小説部門に比べれば、より全国区に近づいていると思われるし。
以前は選考委員の趣味が露骨な授賞があった印象を拭えないが(何でこんな本が?!)、最近は選考委員も増やしながら委員の偏見が露出しないような配慮がなされているようだ。
今26回の受賞が大橋毅彦『昭和文学の上海体験』(勉誠出版)だったのは、(地方の賞ながら)世界中の読者が承認するだろう、「一家に一冊」に価する大著である。
少なくともこの名著が備わっていない図書館の見識は疑うべきで、何故無いのかと館員に問い詰めるべきだ。
選考委員の1人・中島国彦氏が第3回で受賞した『近代文学にみる感受性』に匹敵するような、記念碑的満塁ホームランだ。
内容は表題に明らかだろうけど、金子光晴草野心平林京子堀田善衛小野十三郎・木原孝一(ステキな詩人)などの著名どころの登場人物名を上げれば、読みたい気持が増すことだろう。
思わず登場人物と記してしまったけれど、研究書でありながら小説を読むような楽しさも味わうことができるのが本書の魅力にもなっている、図版も多いし。
何せ3センチ以上もあろうかと思われる大著の魅力を付し始めたらキリが無いので、このくらいで。

もう1人の受賞が石原千秋漱石と日本の近代』(上・下)だというのは意外である。
ご本人も学術書でない自著の受賞を想定外だと言っているとおり、大橋氏の大著と比べると誰しもアンバランスだと感じるだろう。
私も一般読者向けのものだと思ったので1行も読んでないながら、石原氏の漱石論なら読み応えのあるものだろうとは思われる。
しかし氏に授賞するなら、今までに何度かその機会があったろうとも考えてしまうのだ、この辺が選考委員の趣味が出がちなこの賞の地方色かもしれない。
あるいは時々露出してきた「早稲田色」が中島国彦氏辺りから出たものか? もちろん旧来の早稲田カラ―とはことなる彩色で。 
同じく早稲田系ながらも、大橋本については元になった博士論文審査に携わったので、中島氏は選考意見を控えたと語っているけど。
最近「終活」の一部として手紙を整理していたら、女子大系の女性研究者から石原千秋を評価するなんて、信じてきたあなたの見識を疑うと鋭い言葉で難じられたものが出てきたので、改めて驚かされた。
昔「石原千秋は間違わない」という駄文を『青銅』(学大近代文学ゼミ機関誌)に載せた時も、石原氏のケンカ相手の漱石論者を不快にさせたらしく、翌年から(今日まで)年賀状が来なくなった。
受験問題を論じた(?)ような本は知らず、こと漱石に関しては石原千秋は刺激的で十分評価できるという私見を変更する必要を感じたことがないので、非難されても甘んじて受けている。
だから今回受賞した本も、読めば面白いことは確信しているけれど、手応えは以前の氏の著書の方が強く感じるだろうとも思っている。
クセモノの選考委員・関川夏央氏が本書を石原漱石論の決定版と言ってのけているけれど(先行する石原本を読んでないのかな?)、石原氏本人も違和感を抱いているのではないだろうか。
でも夏川氏も中島氏も、石原氏の本書には若い研究者への目配りが感じられる、と言っているのが興味深く思った。
というのも若き日の石原氏にはそういった配慮が欠けていたのか、例えば俊英・柴市郎氏の漱石論を自分の模倣だと批判したことがあり、柴氏の反論を読んですぐに納得したことがあったけれど、石原氏の「若気の至り」らしきものを感じたものだ。
おそらく年齢の近い柴氏に対抗意識が湧いたための勇み足だったのだろうけれど、若い頃に抱きがちな全能感から反転した石原氏が、若い研究者に対する立ち位置に変化が生じてきたのだろうか。
去年、近代文学会で服部徹也氏の漱石「文学論」についての発表を聴き、漱石研究もここまで来たか! という思いを強くしたけれど、石原漱石とは全く次元を異にする学術的研究が進んでいるのに驚いた次第。
服部氏は前記柴氏と同様慶応大学系の研究者だけど、ケイオーは時おり傑出した人が出るのだネ。
そう言えばケイオーの大将格の松村友視近代文学の認識風景』(インスクリプト)は受賞を逃したネ、早慶戦で負けたのかな?
石原本とは異なり学術本で高水準の著書なのだろうけど、大橋本と同じ年の刊行だったのはアンラッキーだったということか。

ンンン〜、ボクとしては難しいことを書き過ぎた、下ネタを言いたくなったゾ〜・・・