清岡卓行「鯨もいる秋の空」

清岡の詩はともかくも、「アカシアの大連」でデビューした時には小説は読むに耐えないものと決め付けたものだ。
学部生だった当時は『文藝春秋』で芥川賞受賞作品を読んでいたものだけれど、選評で三島由紀夫までが褒めていたのに違和感を抱いたのを覚えている。
小説家が詩を書いても詩人たちから評価されることはめったにないけれど、三木卓その他の例が多いように、詩人が小説を書くと文壇では高く評価する傾向がある、と誰かが書いていてナルホドと思ったものだ。
清岡がその後も小説を書いていたので、イイカゲンにしろ! と思いつつも、こんなツマラナイ作品を読む読者がいるのを不思議に感じていた。
だから中国人留学生(ワン君)が清岡の小説を研究していると聞いて驚いたのも当然だった。
A4で15ページにわたるレジュメの当初はテクストをなぞっているだけで論になっていないと感じたものだけれど、「アトモスフィア」を多用するところなどテクストの中核は押さえている印象で頼もしい。
しかしせっかく《とくに「アカシアの大連」とのつながりは強く、ときとしてそれにふれざるをえないが、できるかぎり、「鯨もいる秋の空」に即した読解をおこなっていきたい》としながらも、随所で「アカシアの大連」に即した読解に引きずられ過ぎている。
① 「アカシアの大連」を再読せぬままの予断として記せば、「鯨もいる秋の空」は(「アカシアの大連」も含めて清岡の小説は?)レジュメの言葉で言う「二律背反」ほど先鋭な対立が避けられているのではなかろうか。
むしろ井上光晴の指摘する「両義性」という用語の方がテクストの在り方に即していると思う。
一読して明らかなようにテクストには《二項》が頻出するものの、その二つのものが「対立」を際立たせるわけではなく、両者の対照性が提示されるだけで共存が保持されていくようである。
「ユーモラスであると同時にエロティック」・「抒情的であると同時に批評的」・「二つの感じのうちのどちらかであるようにも受け取れるし」・「また二つの感じをあわせもっているようにも思われる」・「奇怪さと滑稽さ」・「その優しさや明るさは、きっと、その人なりの厳しさや暗さを深くかくしていた」・「空想と現実の裂け口」等々と拾えばキリがないほど提示され、「彼」が課されている「研究」と抑えがたい「小説」も《二項》だろうし、そもそも「彼」と同居して暮らす「次男」も《二項》だとも思われる。
問題はこの《二項》が、「彼」が研究対象とするシュルレアリスムの用語で言う「電位差」が強調されることもなく、「火花」も飛び散ることもない(と思うがどうだろう?)。
上記の言葉で言えば「二つの感じをあわせもっているようにも思われる」という在り方が、言葉を換えてくり返されているだけのようだ。
それはあたかも「彼」に国内留学を優先させた学部長のように「対立にこだわることはほとんどなく」、授業から解放された「彼」が半睡半覚のまま「不精」を通す在り方に重なる。
「電話をかける鯨」のイメージにしても、それをもたらした原因と想像されるものを「ほとんど脈絡のないばらばらの形で、並列する」だけだ。

② ①と深く関連するのだが、頻出する《二項》が「火花」を散らさないだけでなく、「並列」する《二項》とのつながりなり関係が深掘りされることなく、《表層》だけが語られるテクストだ。
「無意識」や「精神分析」という言葉が使われるものの、《深層》は探られることなく「曖昧であるままに保留」されているのも半睡半覚の「彼」の意識と通底していると思われる。

③ ワン君は「1」は「四つの場面」に分けられると言うが、テクスト全体が《音》あるいは《聴覚》に強くこだわっている点が重要ではないだろうか。
《視覚》の積極性に比して《聴覚》が受け身的であることと、「彼」の「不精」な在り方が関連しないはずはないと思うのだけど、どうだろう?

④ いつもながら《語り(手)》の問題、特に《語りの現在》を確認することを忘れないようにしてもらいたい(論に組み込まない場合でも)。
テクストに「現在」とか「それからおよそ一年半ほどして」という時制を表す言葉が出てくるが、時間の整理がけっこう面倒臭いテクストではある。

以上の問題提起に応えて、参加者の充実した意見を聴かせてもらったので、その詳細は省くがワン君の参考になればと思う。
言葉遣いで注意してもらいたいのが(授業でも注意したけれど)、「象徴」という言葉の乱用だ。
ワン君は「鯨」や「秋の空」が「象徴」するものという言い方をしているが、シンボル(象徴)のつもりで記しているわけではないそうなので、ここは「表象」(表すもの)とするべき所。
「表象」(representation)が一般化した現在では、昔のように何でも「象徴」(symbol)という言葉で済ますのは慎みたい。