佐藤春夫「西班牙犬の家」

立教大院の修了生で博論執筆中の栗田卓氏を、今年度初めてのゲストにお迎えした。
30数年間一貫して院の授業は外に向かって開き、外部からゲストを迎えてお互いの刺激にしてもらってきた(昨年度は2人)。
栗田氏はフェリス女学院大学などの授業でこの作品を取り上げてきたので参加希望を伝えてきたのだけれど、それらの経験から得た読解からこちらも学べることが多そうで楽しみだった。

留学生のセンさんが佐藤春夫を研究を志しているのは心強い、留学生としては初めて出会ったナ。
選んだ作品は短篇では有名なので何か言えそうだと期待したものの、あまり新しい読み方は聴けなかった。
のみならずレジュメのかなりの部分が先行研究の無断引用ではないか、という厳しい指摘も受けてしまった。
学大在職中にも出所を明かさずに引用してしまう留学生がいたけれど、論文(発表)としては大きなマイナスになるので十分気を付けてもらいたい。

サブで発表してもらった関口クンは、準備に1週間しかなかったにも拘らず、少なからぬ先行論文を読み込んだ上で自説も用意できていたのはさすが。
お蔭で今までになく多数の人からの質疑もあって議論が盛り上がり、多面的なテクスト理解が深まった。
ボクが「西班牙犬の家」論を書いたのは30年近く前のことで、その頃は先行論がほとんど無かったのに現在では多数の論文が発表されていたのは驚きだ。
おおむね予想された論点ばかりだったけど、今回久しぶりにテクストを読んで語り手が「私」以外の自称に「おれ」が頻出するのが気になったものの、既に論じている人がいると言う(結論はあいまいだとのこと)。
それよりも関口クンの提起した、テクストは全篇「現在進行形」ではないかという論点が議論を沸かせて面白かった。
しかし関口クンが「現在完了的な位置で語っている」とする《後で考えて見て解った》という「後で」という言葉自体が、既に《語りの現在》とのズレを表しているのではないだろうか。
テクスト全体が現在進行形のものがあったかどうか、有島武郎小さき者へ」が当てはまるかどうか気になったが、日本語の「た」が必ずしも過去形とは言い切れないという問題もクリアしなければならないので、タイヘンな課題として残った。
表題の「(夢見心地になることの好きな人々の為の短篇)」という前提も現在進行形とは相容れないのでは? という疑念は、関口クンは表題と本文を切り離すことで処理できるとしたが、いかがなものか?
関口クンは当初、表題は佐藤春夫が付したものとしたけれど、すぐに作家名を出すのはワルイ癖でアブナイ。
ここでは作者とするのは構わないけれど、生身の作家を思わせてしまう佐藤春夫の名を出すのはマチガイの元。
作者は個々の作品の制作者であり、全ての作品を制作したのが作家(この場合は佐藤春夫)だから、作者と作家は明確に分別しておかないといけないだろう。
関口クンは後で「書き手」と言い換えたけれど、作者をその作品の「書き手」と言うのは構わない。
いろいろ沸かせてくれた面白い発表だったので、レポート(論文)にまとめる時に問題点を十分検討してもらいたいものだ。

栗田氏からはアラン・ポーの影響など、さまざまなご教示をいただいた、感謝!