大江健三郎「奇妙な仕事」  テクスト・クリティック  カミュ「シジフォスの神話」

サッカー中継のせいか、感想が遅くなってしまった。
中国の留学生による大江の発表を聴くのは初めてだけど、チョウ君は大江をよく読み込んでいるという印象だった。
それに引き替え授業中にスマホをいじり続けていたので注意した留学生もいたのはザンネンだった。
これまで自分の発表が失敗だったのでふて腐れたのか、急に態度が悪くなったようで困ったものだ。
去年のTさんも授業中スマホをいじり続けていたので注意したけど、自活のためのネット不動産屋の仕事なので止められないという弁解には驚いたナ(今年はその仕事を辞めてヤル気を見せている)。
非常勤なのに授業態度・研究姿勢まで注意して嫌われなくても、という考え方もあるやもしれないものの、授業の雰囲気や当の学生に対する責任を放棄することができない性分なンだナ。
ともあれチョウ君の大江愛を感じる発表で、テクスト・クリティック中心だったのは驚きだった。
というより、大江が「奇妙な仕事」に限らず本を出す度にてを入れたがる作家だとは知らなかった。
小林秀雄井伏鱒二が、より完璧なテクストを目差して出版ごとに手を入れるのは周知だろうが、まさか大江もとはネ。
特に議論になった面白かったのは、元のテクストでは「私大生」だったものが最近では「院生」に書き直されているのだそうで、ビックリだネ。
すぐに晩年の井伏が「山椒魚」の和解の場面をカットして、世のヒンシュクを買った改稿を想起した。
井伏の場合は80歳過ぎてボケたための過ちと言えるだろうけど(その後井伏が後悔している書簡がある)、大江の場合をどう理解し・評価するか?(大江もボケて不思議ないトシでもあるけど)。
チョウ君によれば発表当時、「私大生」という呼び方には東大生たる大江の優越感が露わだと批判されたのだそうだ。
下らない批判ながら、そんなさもしいケチの付け方に反応してしまうところが大江の小ささなり弱さが現れてしまっていると思う。
杉本クンの言うように「法科の学生」でもいいわけだろうが、それだと「僕」と同じ大学の学生になってしまうので世界が狭めれれるから望ましくない、という木島クンの説ももっともだ。
とすれば「院生」も同様で、同じ大学の「院生」になってしまう点で相応しい改稿じゃないネ。
改稿よりも重要な、「私大生」にまつわるチョウ君の読みが恣意的な傾向が強く、反論されていたのも当然だった。
今後の再検討が望まれる。
驚いたのは「ユマニスト」も「ヒューマニタリアン」と改稿されているそうで、これはフランス語があまり流通していないので英語に直したのかもしれないけれど、なぜ「ヒューマニスト」にしなかったのかは不明のままだった。
「ヒューマニタリアン」なんて「ユマニスト」より使われない言葉じゃないか、「大江よ、ナニやってンだ?!」。


大事な問題点が2つ。
1つは会話に「  」が付されてないのを、どう理解するか?
チョウ君は全く考えてなかったと言うが、大事なことだ。
早く同時代に平野謙が指摘していたと記憶するが、「  」を外して発言者(の声)の存在感を薄くする効果は十分に発揮していると思う。
すべてが「僕」の中に内在化されてしまい、「僕」と一線を画しているはずの外的世界の存在感が薄くなっているということだ。
こうした文体の由来がどこなのか、研究が進んでいるのだろうか?
大江以前にこうした文体の試みは無かったのか、気になるところではある。
2つめとして、チョウ君がカミュの「シジフォスの神話」を全く知らなかったこと(新潮文庫が余っていたので謹呈した)。
「死者の奢り」にも通じる《徒労感》の出自として、カミュのこのエッセイを知らないのはマズイ。
もちろんカミュに即して読んでしまうと千篇一律の解釈になってツマラナイのだけど、無視するのならともかく知らないのマズイ、あまりにも有名なエッセイだしナ。
大江に限らず、現代の作家はそれぞれ読書範囲が広いので、研究する側としてはメンドクサイよネ。
カミュを知らずに大江を論じるというのは、ユング河合隼雄について何も知らずにハルキを論じるというのと同様の問題だ。