芥川龍之介「地獄変」  主人公と決めるのは読者  有光隆司  石川淳「アルプスの少女」

漱石もそうだが、今どき龍之介の作品で新見を出すのは並大抵のことではない。
レポの木島クンの意気込みは伝わってきたものの、文学研究ではまだ初歩的な段階なので大事なところでつまづいた。
語りが一人称である点を軽視し過ぎ、叙述を客観的なもので信じられると受け止めてしまったのは致命的。
語り手がクドイほど大殿の弁護に言葉を費やしているのだから、語りを鵜呑みにしたら語り手の意のままに利用されるだけ。
《一人称の語り(手)は信じることはできない。》という教訓は死んでも忘れてはならない。

関心のある「芸術至上主義」を多少ズラしてテクスト解釈をしようという意気込みは評価できるものの、結論が面白味に欠けるのでザンネン。
(クリスチャンの)宮坂覚さんの論に乗って「処女」と「地獄」を対比的に論じた点も怪しく、受講者から「処女」にキリスト教的イメージをかぶせ過ぎると批判されたのももっともだった。
グッチ君が欠席したせいか、日ごろ沈黙気味の留学生も含めて盛んに意見が出たのも面白く聴けた。
良秀の娘の位置付けも過剰で批判されたが、この娘は作品世界で大きな意味を担うには小さすぎるだろう。
最新の研究がどいう状況なのか知りたかったが、レポが引用したのは古いものばかりでボクの希望には応えられずに終わった。
レポが研究の基礎ができてないままの発表だったのでマイナスが目立ったものの、意欲と工夫する手付きには期待できる。

ボクの説明に対してマーさんから「主人公」についてのタイムリーな質問が出た(質問が出せるというのは勉強している証拠)。
結論だけ記しておけば、主人公を決めるのは読者であるということ。
誰を主人公とするかということから、テクストを《読む》作業が始まっている。
だいたいの作品において、主人公だとされるのは一致しがちではあるが、だからこそ千篇一律の作品理解が広まっているわけだ。
優れた作品論として紹介したのは有光隆司さんの「坊っちゃん」論、この卓論は坊っちゃんと呼ばれる若者を主人公とはしないで読み切った画期的な論(ルー小森が有光論の尻馬に乗った論を発表したのは醜悪)。
有光論ほどのレベルは無理としても、主人公が絶対ではないというのを理解するには知っておくべき「記録に残る論」だ、読むべし!

@ 次回は石川淳「アルプスの少女」を淳の専門家であるグッチ君が発表してくれるので楽しみ。