石川淳「アルプスの少女」

石川淳は気になる作家、太宰治高見順などと共に「昭和10年代の作家」として、あるいは「語りの作家」として括られているのが一因だろう。
とはいえ太宰や高見ほど好きではないのも確か、好きな作品を上げろと言われても困るのだから。
身近なところでは大学の後輩である山口俊雄さんが論文を発表する度に抜き刷りを送ってくれていたので、彼の論から読み方を教えてもらいながら時々石川淳を読んできたのだネ。
ハイジのパロディだという「アルプスの少女」という作品は名のみ聞いただけで読んだのは今度が初めて、こんなに面白いとは思わなかったナ。
「おとしばなし」シリーズも含めて、「焼け跡のイエス」や「処女懐胎」など淳のパロディは読んでいたけれど、「アルプスの少女」は分かりやすくて読ませる、教科書(筑摩と聞いている)にも採られているのもナルホドだネ。
パロディ作品の例として、桐原でも採ってみたい作品だと感じた、毒が少々キツイけどそれがまたイイかな。

とはいえ発表と議論を聴いていたら、テクスト理解が不十分だと感じたので、いつも以上に議論に参入して読み方を誘導した。
「山の上」=無葛藤の平和な童話的世界(対)「山の下」=戦争も起る現実世界という対比を押さえれば理解しやすいテクストだと思うのだけれど、筑摩の教科書指導書がキチンと書けているのかが気になったくらい。
クララの「足」とペーテルの「足」の対照に注目するのはイイのだけれど、何故クララの「足」が「山の下」に向かいペーテルの「足」が「山の上」に戻りたがるのかを説明できなくてはいけない。
ペーテルは男だから望まないにも拘らず戦士として「山の下」に連れ出されるからこそ「山の上」に戻りたがる、というのは理解しやすいだろう。
クララの方が捉えにくかったようだけれど、彼女は脚が不自由だったために(どこにいても)「山の上」的な場所に隔離されていたため現実世界を知らずに過ごしていたので、自由を獲得した彼女の「足」はひたすら「山の下」=現実社会へ向うのだ。
戦争という現実世界を強いられたクララとペーテルの「靴」がともに「やぶれ」ている点に着目したのはイイのだけれど(古平クン)、2人が「山の上」に戻ろうとしたらハイジの姿が見えず、ペーテルが「山の上」の存在であるアルムじいさんにダブりつつ消え解けてしまいそうになった時、クララが「あぶない」と叫ぶ理由を押さえておかなければならない。
ハイジ(=童話的世界の象徴)のいる「山の上」に戻るのが2人の救いではなく、「あたしたちはここにじっとしてはいけないわ。」とクララが言って2人で「山の下の、あの遠くの町」の方へ行こうとペーテルを誘うのも、現実から隔離された童話的世界に閉塞していてはいけないという認識を語っている、と読めるだろう。
二項対立的な世界像で分かりやすいテクストながら、それだけ単純で図式的に読めてしまうのが教科書向けであるような、それじゃいけないような感じだナ。

レポのグッチ君がたくさんの註を尽くしながら、テクストから作家的世界に論を広げようとした手付きはさすがながら、肝心なヨハンナ・シュピリの原作との比較を経てからの話だろう。
単体で論じるには枚数不足になりそうな作品だから、原作との対比によってパロディの切れ味を提示し、さらに石川淳のテクスト的在り方へと論を展開すれば論として成立するだろう。