「富嶽百景」論の感想

12月の予定を記していたら、前回の感想を書き忘れていたのに気付いた、設楽クン、ゴメン!
教科書の定番作品(桐原でも採用している)のせいか参加者が少な目だったけど、クリマン君に言わせれば「だからこそもっと参加すべきだ」ということになる、ナルホド。

〈写真〉という観点からこの名作に挑んだ論だけど、その切り口による先行論(とレポが理解もの)が意外に多いのには驚ろいた。
のみならずテクストにも〈写真〉的な叙述が目立つのも意外だったが、詳しいことは論文になるのを楽しみにしてもらいたい。
フレーミング」という言葉が使用されていたので、トリミングとの差異をレポとクリマン君から教えてもらえたのは収穫だった。
もう1点、この作品をメタフィクションとして読もうという意欲には驚いたけれど、これこそ論文として讀まないと伝わらないだろう(ボクにはイマイチだったし)。
「単一表現」の理解も独特・挑戦的で、ボクには共感できなかったけど、論理化できたらインパクトのある論文になるはずだ。
 
最後の場面で、2人の娘にシャッターを押す際に、2人を画面から外してしまう意味ががよく分からない、とレポもクリマンも言ったので、以前の拙稿(『現代文学史研究』第8集、2007・6)では触れてなかったので補足してみた。
小論の論旨に沿っての補足は、《既に富士と人間を取り合わせた二十数景を語ることで自己救済を遂げた後なので、もう富士と人間を組み合す必要がなくなった》から、「富士山、さようなら、お世話になりました。」と心中で礼を告げながらシャッターを押したという理解である。
富士山(超越的存在)との関係で人間(自己)の意味を問うというくり返し、バスで富士を無視したまま毅然としている老婆の境地に学びつつ、意味付けという行為から脱しえた果てに、投げ出すように《酸漿(ほおずき)に似ていた。》とだけ語って結ぶことができたのだ。