芥川龍之介「六の宮の姫君」  篠崎美生子

レポのリュウさんは文学専攻ではないとのことなので、文学研究の方法やレジュメの作り方がまだ身についていないのが明らかになったものの、来日して間もないとのことなので今後の発奮を期待したい。
日本語のレベルも自覚してアップしていかないと、修士論文を書く段階までタイヘンなことになる、今回発表したことで多くの課題が見えてきたこと自体を喜んでおくべきだろう。
レジュメの書き方も、先行研究の引用と自身の意見との区別を明確にしないのはマイナス点、気を付けよう。
その先行研究も弘前大学の紀要に乗った卒論に惹かれてしまうなど、論文のレベルの見極めが全然できていないものの、これは日本人院生にとっても難しい課題だろう。
漱石や龍之介・太宰など、玉石混交で溢れる分量の論の中から読むに価するものを選択するのは、そのための能力を養わなければならないから、死にもの狂いの努力が必要だ。


先行論なのか、本人の意見なのかは不分明ながら、レジュメで姫君が「満足」と「変化」をくり返すと言っているが、姫が「満足」したことがあるという記述がテクストにあるとも思えない。
「選択」とか「責任」とかいう言葉も、姫に主体性があるかのように聞こえてしまうので、適当なものではあるまい。
「自立性が乏しい姫君」に「創作力の減退」を自覚した龍之介の自己投影を読むというのは、低レベルの先行研究なのであろうが、それを言うならもっと後の龍之介についてだろう(と龍之介に関心がない身ながらも)と思う。
「六の宮の姫君」と同年に発表され始めた保吉もの(私小説)の試みを、簡単に「創作力の減退」と言い切ってしまってはミもフタもないだろう。
いずれにしてもこの作品に関しては、ホームラン的な論文としてミオコ先生(篠埼美生子さん)さんの論をくり返し読んできたので、リュウさんに第一に勧めておいた。
学部生の頃、三好行雄師の試験で「芥川は芥川賞ではなく直木賞の作家だ」と書いて単位をもらった私には、龍之介の作品よりも三好師やミオコ先生の論文を楽しんでいるのがホンネだ。
2年ほど前の合同研究会(立教や学習院などの院生が立ち上げたハイレベルの研究会)で、安吾文学のふるさと」における「突き放される」という難解な用語も、「六の宮の姫君」に当てはめると理解しやすいと発言したことがあるが、いかがなものだろう?