辺野古埋め立てとメキシコ国境の壁  ローラ  りゅうちぇる  三浦瑠麗

まだまだ新しいブログを使いこなすことができていない。

先ほど昨夜せっかく書き始めた記事を呼び出そうとしながらも消去してしまい、復元もできずに始めから書かなければならない。

沖縄のことだから書かねばならない、昨日とは書き方が違うだろうけど、主旨に変化はない。

辺野古埋め立てが強行される中、住民投票が行われたけれど、当然ながら反対票が賛成を圧倒したものの、無力感がぬぐえない。

安倍政権が住民の立場で検討することなど、いっさい考えもしないからだ。

有効に機能しないので統計資料まで改ざんさせたというアベノミクスだけに、安倍政権は何でも経済(カネ)優先にして、住民が反対ならカネを回して懐柔すればイイとしか考えてない。

ヤマト(本土)の人たちも自分のことしか考えてないから、己の生活が安泰ならば沖縄を犠牲にしても安倍政権を支持し続けるのは、フクシマを犠牲にしてオリンピックに興じているのと変わりない。

フクシマの汚染や地球の汚染など完全に無視しつつ、カネのことしか考えてないという点では、安倍晋三も低能トランプと何ら変わる所はない。

やっていることも反対を押し切って壁を作ったり、美しい海を埋め立てたりしているので、実によく似ている。

敬愛する是枝裕和さんが安倍政権からの表彰(?)を断った(当たり前だろ!)とか、タレントのローラが埋め立て反対の署名を呼びかけたとか(事務所が止めなかったのもエライ!)、騒がれた時は知らなかったけど爽やかなニュースだったナ。

朝日新聞が2月16日の「耕論」という欄にローラ問題を取り上げ、「芸能人 もの申せない?」という表題の下でりゅうちぇるの意見も紹介していて驚いた、ウサン臭いイメージしか持ってなかったタレントだったので(相方のブスと結婚したり・子作りしたとかも、彼の存在自体と同じく不可解だったし)。

彼は沖縄生まれのせいもあってかローラに共感しているようだけど、直接話題にしているのは同性愛者の権利で、異性愛と同じく結婚が認められるべきだという至極真っ当な意見だった(見直したヨ!)。

歴史に残る低能大臣・麻生太郎杉田水脈をはじめとする自民党議員たちの根強い偏見に抗して、彼は機会があるたびに自分の信条を発信してるとのこと。

ローラもエライけど、りゅうちぇるもエライ!

芸能人が社会的問題について発信すると、それ自体がニュースになり「問題を本当に理解して発言しているのか」と非難されがちだとりゅうちぇるも言ってるけど、この手の非難は古典的な嫌がらせで、ボク等の時代の学生運動に対する非難のワン・パターンでしかない。

かの丸山真男の考えなのだけど、《認識の果に行動が生じるわけではない》(言葉は正確ではないが「認識と行動」の問題としては間違いない)というとおりで、「理解」が十分になれば正しい「発言」になるわけでは決してない。

どこかで「認識・理解」を断ち切らない限り「行動・発言」は生じえない、この論理で反対意見を論破したのを忘れない。

 

安倍晋三がフクシマや沖縄のことを十分「理解」した上で「発言」・行動しているわけでないのは、誰でも知っているし本人もそれを自覚しているはずだ(自覚してなければ麻生太郎並みのバカだ)。

「理解」が進むと現状肯定に進みがちになるのも、警戒しなくてはならないことだ。

現実世界とは矛盾のかたまりだから、「理解」が進むと自縄自縛に陥ってしまうほかないのが通例だ。

それでも何とか矛盾を解決しようと向かうのが若さであり・蛮勇であり・革新である。

矛盾の壁を前に早々と諦めてしまうのがオトナの発想であり・欺瞞であり・反動だ。

若い頃から保守を売りにしているという、三浦瑠麗の限界もそこにある。

矛盾を引き受ける若さをハナから放棄しつつ、オトナにおだてられるままに反動的な立場で「理解」を振り回している姿は醜悪そのものだ。

頭だけの「理解」だからしょせん机上の空論を発信し続けるしかないから、その場限りの思い付きとも相まってネットを炎上させるほど大バカな発言もあるというのも頷ける。

ローラが目の前のチュラ(美しい)海が埋め立てられる醜悪な光景に心を痛め、埋め立てを中止させようと思って行動に移るという清新さは貴重だ。

この初発の気持こそが大事なのであり、この気持を「理解」を盾に抑えつけたら醜い現実を永久に追認して行くしかない。

子供の「変だナ?」という気持をオトナの「理解」で押し殺し続けたら、地球も宇宙も汚染され続けることになる。

汚れたオトナである己を、日々自覚しながら《初心》に立ち返ることこそ、地球を救う唯一の道だろう。