呉座勇一(闘う歴史家)  応仁の乱  井沢元彦(ウサン臭い)  百田尚樹(ウソ臭い低能)  本郷和人

先ほどまで(既に録画してある)「英雄たちの選択」2時間SPである「応仁の乱」の再放送を見ていたけど(最初はまだ釣行の疲れが残っていて居眠りあり)、中央新書で突然有名になった呉座勇一さんの参加もあって面白く理解できた。

呉座さんはむかし磯田道史さんが面白い連載をしていた、朝日新聞記事の後を受けたので知った人だけれど、磯田さんほどの面白さや切れ味を感じなく、ただ真面目な研究者という印象に留まっていた。

その後『応仁の乱』が40万部(?)も売れて一躍有名になったので驚いたものの、マジメな人が複雑な戦乱を整理してみたというネタ(応仁の乱)の興味深さでウケたのかと思っていたら、この人そんな程度のオトナシイ人ではなかった。

戦国時代というと小和田哲男さんだけれど、切れ味がなくてもの足りない歴史家であり、呉座さんもその種の人だというイメージだった。

先日の週刊誌の目次で井沢元彦と論争を続けているのを知ったけど、その井沢のウサン臭さをたたいたコラム(上記のと別の朝日夕刊の連載)の記事は10日ほど前に読んだので、呉座勇一讃歌をブログに書きとめようと思っていたところだった。

事の発端はおそらく、呉座さんの以下の文言が井沢の胸をえぐったためだろう。

《作家的な想像力が旺盛すぎて学問的な批判に耐えない奇説が大半》

こんなに厳しいことが言える感じではない人だと思い込んでいたけれど、そう言えば2・3ケ月前だったかも同じコラムで井沢以上にウサン臭い右翼低能の百田尚樹に対しても、「学問的な批判に耐えない」愚論だと徹底的な批判を加えていたのだった。

上記の文言は文学研究でも、むかし流行った秦恒平やルーさん(小森陽一)の「こころ」論を想起させる。

そう言えば、先日未知の研究者から抜き刷りを送っていただいた手紙に、

《また、小森陽一等への痛快な御挑発、胸を躍らせ喝采致しておりました。》

とあって喜びつつ安心したものだ。

「こころ」論の後も「春琴抄」をめぐって《シドク》(恣意的な読みの垂れ流し)が続き、文学研究においても「学問的な批判に耐えない奇説」が持てはやされる情けない状況を悲観していたからだ。 

 

井沢や百田のようなシロウトのみならず、呉座さんはレッキとした歴史家である本郷和人氏もキチンと批判しているのは立派!

本郷さんと言えば、若い頃から放送大学の中世史の一部を担当していた頃から注目していた親しみやすい人だけど、「英雄たちの選択」に出た時の発言からして意外に(?)歴史研究の方でもタダ人ではないと思っていた。

それが同じ応仁の乱を他社の新書で出版したらしいのは良いとしても、本郷さんは呉座さんがこの戦乱を分かりやすく整理したのが気に入らなかったと見えて、自分は呉座さんとは異なり複雑さを伝えているとどこかに書いたらしい。

それに対して呉座さんが本郷さんを批判していたのは興味深かったので、両方の新書を買って読み比べたい思いがつのったけれど、残念ながらそこまでの余裕はない。

でもボク以上の歴史好きな仲間には、呉座さんの書はおススメだネ。