今藤晃裕  小森陽一  「山月記」論

締め切りのある当面の仕事からいったん解放され(すぐまた締め切りに追われるのだけど)、この2年間の法政大院の授業からも解放されているので、仕事机の周囲に積んだままの本や資料からアット・ランダムに引き出して読んでいる。イー君(今藤晃裕)の国語教育論文「いかに〈読む〉か、あるいは文学(史)の授業を再起動するために(副題略)」(『日本女子大学附属高校紀要 第40号 2018・3)の「いかに〈読む〉か」が気になったのでチョッと覗いてみた。イー君はつい最近の『学芸国語国文』第51号(2019・3)にもマンジュ(鳥井杏珠)と共に(2人ともヒグラシゼミの有力な準レギュラー)堂々たる論文を載せたばかりの気鋭の研究者であり、昔からシッカリした考えを持っていた人なので、教育でもそのシッカリさを発揮しているだろう姿を確認するだけで済ますつもりだった。

ところが呆れるほどシッカリしていないので、ふらつくイー君の足元を安定させるために一言記しておく気になった。どこの大学でも在職中から《教育》を無視して自らの《研究》だけに打ち込む人も、古来少なくなかったようだけれど、ボクは《教育と研究》の双方に携わっていないといられないタチだった。宇都宮大学の頃から、いや遡れば上野忍丘高校定時制の頃から、学生・生徒との交流を重視しながら授業外の活動も楽しんできた。退職後もヒグラシゼミを継続しながら、教員のみならず卒業生と伴走する用意を常にしているつもり。メールのやり取りも職場での悩み相談の類が多いくらいだから、イー君に教室における足元を安定してもらうべく助言を試みたい。

 

論の主題は、授業にいかに理論を導入したら良いかというのが中心問題。具体的には「最大公約数的な読みをおさえていった末に、それを異化するような〈読み〉を授業者の側で提示する」というやり方でよいのだろうか、という問題意識からの問い。ボクの専門ではないながらも、定時制高校(専任)を中心に7年間の中学・高校(非常勤)での体験を踏まえながら助言しておきたい。

最初に「異化するような〈読み〉」の例として、いきなりルーさん(小森陽一)の相も変わらぬ恣意的極まる放言が引用されているのでビックリ! コイツまだ文学の領域でも発言し(目立ち)たがっているのか、人心(学生・教員)を惑わすのはいい加減にして政治(共産党)だけに退避していてもらいたいものだ。本家のルー大柴と同じく、目立つためには何でもやるという魂胆から、「こころ」で味を占めた恣読を高校教科書のもう1つの御三家作品「山月記」に狙いを定め、以下のような放言をしているそうだ(イー君の引用)。

《この頃はまさに、楊貴妃を政略結婚に使った楊家の人々が政治の実権を握ろうと暗躍していた時期であり、そういう世襲的な政治の世界から李徴は離れようとしたということです。(イー君が施した中略)そんな中にあって、かつての同輩ははるか高位に進んでいました。それができたということは、同輩たちは楊貴妃の人脈に取り入るなど、裏の手段をとって出世していたはずです。(同前)このとき、中央から派遣されて地方を回っていた観察御史の袁傪とは、そうした腐敗堕落していた末期の玄宗帝政権のなかで、最も剥き出しの暴力的な部分を担っていた官僚ともいえます。そのような袁傪が果たして「人間的」といえるでしょうか。》(『大人のための国語教科書』2009年、角川書店

引用を写しているだけでムラムラと憤りが込み上げてくる思い、目の前にいれば一発ピンタを食らわして「目を覚ませ!」と怒鳴りつけたくなる感じ。解放以前のチェコからの帰国子女とはいえ、いかに日本や中国の事情に無知だからといっって、思いつきだけの・あるいは本を読んで知ったばかりの生半可な知識を、そのままテクストの《読み》に引きずり込んでウソ八百を並べる手口は悪質極まるもの。「です・ます」調の言葉使いからして講演記録だとしたら、その場で反論が出そうなものだが、黙って聞いていたとすればよっぽどバカの集まりだったのだろう(高校生向けだったとすれば、その純真さで黙っていたものか)。

テクストを全く無視して妄想のやり放題、李徴が当時の政治的状況に対する不満・批判を抱いていたという記述は、テクストには全然見当たらない。むしろ外的ではなく内的な要因(自己表現欲)で苦悩していたという記述にあふれているのは周知のとおり。袁傪も「剥き出しの暴力的な部分を担っていた」と断言する傍証は、テクストにはまるで見当たらない。原資料の「人虎伝」にも無いだろうから、ルーさんの身勝手な決めつけでしかない。ソ連の傀儡政権下にあったチェコで思春期を送ったために、作中人物に対して偏見に満ちた読み方になってしまったのだとすれば、ルーさんの悲惨な思春期に同情は惜しまない。しかし「山月記」を食い物にして己をアピールするだけのように見える、研究・教育界に害悪を垂れ流す所為は絶対に許せない。作品を守るためにも、研究・教育の世界から抹殺すべき存在だ。

それにしても、こんな粗雑極まる恣意的な《読み》を、イー君ともあろう者がどういうつもりで引用しているのだろうか? 引用の後で《中国史の知見を援用して考察するということはあり得ることだろう。》と言ってみたりするのだから、ルーさんの《恣読》を鵜呑みにしていないまでも、何ら批判的な言辞が見られない。足元がふらついているという心配はこれである。「最大公約数的な読みを(略)異化」しようとする試みは知的刺戟に効果的だけれど、提示する前に十分なチェックも経ずに生徒の前に投げ出されたら、生徒が混乱するだけだという配慮がまるで欠けている。チェックする能力が無いイー君ではあるまい。誰かに気遣いしているために正当な批判ができないのだろうか?そんな気遣いをするくらいなら、悪質な読みを例示するのを控えるべきだろう。精密なテクスト分析に基づいた、本来の意味での新しい《読み》をこそ提示すべきだ。

先般数本の抜き刷りを送ってくれた未知の研究者の手紙には、院生の頃からボクの「為事」から多くを学べたという謝意と共に、《また、小森陽一等への痛快な御挑発、胸を躍らせて喝采致しておりました。》という付記もあって励まされたばかり。テクストを《読む》という文学研究のフィールドから、恣意的な放言を排除しようと努めてきたことが無駄ではなかった手応えを感じて、この上ない悦びを得たところだった。在職中の演習授業や自主ゼミから現在のヒグラシゼミでも、唯一基づくべきテクストに根拠が無いことは放言しないよう戒めてきたつもり。

授業は思いつきの「感想」を垂れ流す場ではない。自身のみならず他人の《恣読》にも警戒を怠ってはならない、イー君、シッカリしろ!

 

(他ならぬイー君のためだからこそ、言葉を尽くしたつもり。伝わらなければいくらでも説明を重ねる用意はある。論文の出だしの所に対するコメントだけに3000字を費やしてしまったので、その後の中村三春さん達の論に関するコメントは時日と画面〈紙面〉を改めたい。)