【音楽】ジョン・ケージ「4分33秒」の演奏会  デュシャンかポロックか?  カニングハム  尼ケ崎彬  青山昌文 

昨日の朝日の夕刊、「around sutege 」という欄にとても面白い記事があったので紹介したくなった。20世紀を代表する曲といえばストラヴィンスキー春の祭典」だと思うけど、20世紀で一番の問題作といえばジョン・ケージの「4分33秒」だということは誰しも認めるだろう。初演ではピアニストが4分33秒の間、ピアノに触らずに終わったという「???」にあふれた曲ネ。

この記事は初演後には演奏されることがなかったであろう、この曲の演奏会に立ち会ったという感想。安部美香子という署名があるけど、朝日の記者なのかな? 太田弦指揮の神奈川フィルの演奏だったそうだけど、最初に司会者が《演奏者に注目して下さい。何も音を出さないんです。》とネタばらしをしてしまったので落胆したという。「演奏」が終ったら《控えめな拍手が起きた》というのは笑えたが、安部によれば禅に影響を受けたケージは「無心」に導かれて《作曲者の自我を退け、偶然に起きることをあるがままに受け止める》点で、《便器を美術昨品として展示したマルセル・デュシャンの「泉」にも似て、音楽についての固定観念を覆し》と十分な理解を示している。それだけに最初にネタばらしをした司会者(というよりプロデューサーの意向かな?)を恨んでいる気持にも同情できるナ。

デュシャンを引き合いに出したのも納得できるけど、今日の放送大学舞台芸術の魅力」第6回の「ダンスの現在」で尼ケ崎彬さんは、安部さんも言う「偶然」の生んだ美術作品の例としてはポロックを上げていた。これも納得できるけど、デュシャンの方がインパクトが強いかな。尼ケ崎さんは現代の「偶然」の芸術の代表として、各ジャンルからジョン・ケージポロックを上げながら、「偶然」のダンスとしてマーサ・カニングハムを上げていた。カニングハムは1つのダンスを成立させている部分の順番を、サイコロで決めたというのだから、一段と「偶然」性が高くなり、その分無意識からも断絶した芸術が成立することになる、というのが尼ケ崎さんのまとめ方だったと思う。

それにしても尼ケ崎さんの実力はホンモノで、放送大学で同じ芸術分野を担当している

 青山昌文と比較すると、青山がただのデカ能無しでしかないことがあぶり出されてくる。青山の講義の薄っぺらさが反照されてくるだけでなく、青山の話し方も脳軟化(昔風の言い方)の症状か、何度も何度も同じ言葉をくり返すのでウンザリする。一方の尼ケ崎さんの口調は「立て板に水を流す」という表現のとおりで聴きやすい。脳内が青山と違って明快なんだろネ。

尼ケ崎さんの文章を以前の桐原では教科書に採用していたけれど、難し過ぎたかな?