【テクストの読み】「山月記」のシドク

李徴が世を捨てた理由として《詩》に生きるためだというボクの理解に対して、優れモノのメイが必ずしも《詩》に限らない自己承認欲があったという読みを提示してきた。以下はそれに対するボクの説明を昨夜メールしたもの。 

 

 

メイの読解力を信用している身としては、数年ぶりに「山月記」を読まざるを得なかったゼ。しかし久しぶりの敦の文体には感心したけれど、自分の読みはゆらがなかったナ。何と言ってもテクストに「詩」という言葉が溢れているし、それを否定的に捉える言葉は出てこない。李徴と詩は切り離せないものとして語られている、李徴のアイデンティティだと見たネ。だから自分が出世すれば詩から離れる可能性は読み取れないのも確か。

《己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった》という「俗」が「詩」の対語だと思う。実生活も俗だから家族を軽視してしまうのは必然だったわけだ。それが「欠けるところ」の原因だとするのは、あくまでも袁さんの見方でしかない。「欠けるところ」があるとすれば、過剰な「自尊心」のために師に付かなかったのが原因と見るべきだろう。

李陵の詩を相対化するものは俗ではなく、より優れた詩ということになる。

 

メイの読みが微妙だと思うのは、科挙の受験科目の1つが詩賦にある点だよネ(他はテクストにも出てくる経書、それに政策論というところかな)。つまりは俗(出世)への道が詩に重なっている点だよネ。だから李徴の承認欲が俗的地位のようにも見えてしまうということだよネ。

賛同はできないけど、それを主張する考え方は理解できるナ。

そんなところかな。