「山月記」の〈読み〉をめぐるメイとのやり取りの続き。「論争」への介入歓迎!
〈メイより〉
「山月記」、先生に、読みを理解できるとおっしゃっていただけて、よかったです!
先生は、李徴に欠けているものの原因は、「自尊心のために師につかなかったこと」とおっしゃっていましたが、実 は私は、李徴に欠けたものがあるとしたら、「詩魂」というか、「詩人の魂」のようなものだと思っています。
それは、いかに良い師についたとしても、持てる人にしか宿らないものです。
なぜ、産を破り、心を狂わせてまで詩に執着したのか、いまいち描かれていないのが気になりまして。
詩そのものの魅力に取り憑かれて、一世一代の作品を創り出すために家族を犠牲にし発狂したというような、芸術至上主義的な破滅ではなく、「文名は様にあがらず」焦った、とか、やはり虎になってまでも、長安の風流人士に認められることを夢に見る、とか、やはり彼の底には名誉欲が横たわっているのではないかと思ったのです。
そして、そういう男だから、 詩「人」として生を全うできず、「虎」になっちゃったのだと思いました。
(詩以外に、書だとか、画だとか、そういうものにもかなり秀でていたとしたら、そっちでもよかったのではないかと思いました。)
〈イチローから〉
「魂」かい?! 大仰だネ。
そんな高級な話じゃないと思うがネ。
問題は李徴の詩に対する客観的な評価ではないなくて、李徴の主観だと思う。
レベルが低かろうが、それしかないと思い込む李徴の気持だネ。
書でも画でもなく、詩に憑かれた存在だと思う。
出世すれば詩を忘れるようなものではあるまい。
テクストが詩という言葉(シニフィアン)に溢れているという面を見落としてはなるまい。
詩=李徴(アイデンティティ)という語られ方だと思うがナ。
詩以外で承認されても納得できないのが李徴(的在り方)だろう。
虎になっても詩を忘れることができない意味を考えるべきだろナ。
メイの思い込んだらイノチガケ、という心理も分からないではないけど、テクストから根拠を出さないとネ。
(**の仕事ばかりやってるから、文学テクスト論議は殊の外面白い。)