【読み】三浦哲郎「ユタとふしぎな仲間たち」のイチロー読み  『三浦哲郎事典』(鼎書房)

ブログの反響としてヘイカから「ユタとふしぎな仲間たち」についての、ボクの論を読みたいという希望が寄せられた。『宇大論究』の原稿はPCに残ってないけど、『三浦哲郎事典』の原稿が残っていたので事典の宣伝も兼ねてイチロー読みの部分だけを紹介します(この項目は全体が3ページで、「読みのポイント」はその3分の1くらいの分量)。ボクが書いた他の3つの短編小説の解説を始め、とても面白くて役に立つ事典なのでおススメです。

 

【読みのポイント】まずは基本的なこととして、物語の類型からすればユタのビルドゥングス・ロマン(成長物語)と読めることは衆目の一致するところであろう。逆に言えば、そうした読みをズラス方向を模索することによって新たな読みの可能性が拓けるであろう。例えばユタを中心化して読むのが一般だとすれば、ペドロたち座敷わらしの読み方を探ることになる。いずれの読みにしても、人間と<妖怪>という二つの世界の境界をいかに読みに繰り込むのかが問われることになろう。人間の側からは大黒柱を通って座敷わらしの世界に入るが、出口は座敷わらしの世界の古井戸になっているのも興味深い。その意味を解くには、深層心理学民俗学文化人類学の知が参考になろう。

 留意すべきはユタの成長物語として読む際には<父>恋い(父との同一化)の物語になろうし、座敷わらしを中心化すれば<ワダワダ、アゲロジャ、ガガイ>の呪文に瞭然としているように<母>(ガガイ)恋いの物語となることである。テクストが保持するこうした多義性を減殺せずに読むことの困難は、読みを試みる者に常に付きまとうものではある。 

 テクストに沿った読みのポイントの一つは、表題に含まれる<仲間>の押さえ方であろう。「不思議な仲間たち」という言い方からすれば、<仲間>はすなわち座敷わらしということになる。しかしそれが結論ではないことに留意すべきであろう。ユタは座敷わらしと<仲間>になって終わるわけではなく、彼らとの別れに際して<ひとり>で生きていく自信を伝えることになるからである。

むしろユタが湯ノ花村に引っ越してから、常に<仲間>に入れるか否かが問題になっている点に注目すべきであろう。当初は村の子どもたちの仲間に入ることが目指されるが果たせず、座敷わらしの仲間に迎えられることになる。その際にペドロが<おめえのオドから受けついだ勇気>という言い方でユタを父とのつながりで評価していることを忘れるべきではない。眠りから覚めたユタがペドロの足を父のものだと思ったということと相まって、この物語がユタの成長譚(父恋い)と読める傍証となっているからである。

 座敷わらしから得た知識(梅雨の始まりと終わり)を村に伝えることをきっかけに人間の<仲間>として認められたユタは、トリックスターだという見方もできよう。村の子どもたち(人間世界)から締め出されたユタが、座敷わらし(異界)から知と力を持ち来たることによって承認されるというパターンだからである。ペドロは<すべておめえの努力が実を結んだのさ。>と言い、ユタが力を着けたのは確かに<体の鍛錬>を重ねた成果ではあるものの、体力の無さを自覚させたのもペドロたちであり、知はすべて彼らからの受け売りである。自力を他力という二面性は、いわばトリックスターの成長物語という読み方を可能にしよう。しかし自力で成長を遂げえた者が<不思議>の世界が必要でなくなるのも自然な成り行きであり、離れの火事は物語の必然であった。その反面、鍛えるべき体を現実世界に持たぬ座敷わらしには成長はありえない。彼らは永遠に<わらし>に留まり、出口の無い母来いを繰り返すだけである。

 ユタの成長と反比例するかのように、末二章ではペデロが弱みを見せる。小夜子への贈り物と、それ以前の小夜子の仕事の手伝いをどう読むかもポイントになろう。人間と<妖怪>という二つの世界を超えた片思いと読むよりも、オムツのにおう赤ん坊をいつも背負いながら励んでいる小夜子のあり方を考えるべきであろう。つまりはペデロの母恋いの物語であり、それが挫折することとユタの父恋い(成長)が表裏となって両者が終結を迎えるのである。