昭和文学会の催しで会った時に、仲井眞クンから近々『日本近代文学』に「面影と連れて」論が載るという報告を受け、『目取真俊短篇小説選集』全3巻をゲットしておいた。学会誌(第100集)が届いたのでまず作品を読んでおいたものの、拙著の編集作業などのため、論文の方の読みが途中で放置したままだった。10日ほど前に改めて作品を読み返し、論文全体も読んだものの、ヒグラシゼミや拙著の作業などのために感想が書けなかった。
初めて作品を読んだ時の感想は再読でも変わらなかったけど、目取真作品としては並み以下という印象で、この手のものは論じにくいだろナと思った。言うところは、作品に論じさせてくれる力が感じられなかったという意味だ。「水滴」や「魂込め(まぶいぐみ)」のような傑作が有するパワー、あるいはマジック・リアリズミの迫力に欠けているのは明らかで、奥行きの無い図式的な作品世界に見えてしまい、論じようがないという感じ。
批評じゃないから作品の評価をしようというのではないながら、作品に力が無いと論じるのが困難だという偏見を抜けきれないのだナ。自分で論じるわけではないからそれは構わないのだけど、仲井眞クンがこの作品に感銘を受けて論じる興味を覚えて書いたのかもしれないものの、研究者としての力量を付けた印象は受けるものの、論文からは作品同様に面白さを感じないのは如何ともしがたい。仲井眞クンも引いているイクオちゃん(新城郁夫)の小論(『沖縄文学という企て』インパクト出版会)も読んだけど、これも「文学時評」だから作品の魅力を伝えがたいという限界を出るものではなかった。というより作品に魅力が無いのだから仕方ない。
作品を一読して何やら既視感(デジャビュ感)を覚えるのは何故だろう? ヒーローが出自や身分を明かさないままで立ち去り、事件の後で正体が判明するパターンの物語だよネ。遡れば社会主義文学・プロレタリア文学にありがちなパターンじゃない? 遠くはワーグナーの楽劇にもあるけど。もちろんそれがいけないわけじゃないけど、「面影と連れて」では図式に終っている感じでイケナイね。
「うち」(沖縄の若い女性)に限りなく優しくしてくれた「あの人」が、皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して火炎瓶を投げつけた学生の仲間だったことが、事件後に判明するという運びが単線的すぎるのがボクの不満なのかな? 「うち」がホステスの先輩たちから下半身攻撃を仕掛けるように言われても実行しないし、「あの人」の側からもその手の行為がいっさい示されないというのは不自然に過ぎてもの足りない、というのはボクがスケベ過ぎるからかな? この辺の双方の葛藤をキレイ事で済まさずに泥臭く表現していれば、迫力もリアリティも出てくるのではないかな?
大昔、那覇の店で泡盛を酌み交わしつつ、イクオちゃんが(指揮)棒振りしながらハミングしてくれたワーグナーの楽劇世界のように、オドロオドロしい性(生)の世界が語られていたらと思うと、「面影と連れて」は淡泊すぎてもの足りないのだ。ワーグナーは媚薬を使ってまで性の世界のオゾマシサを描いているヨ(でもあの時イクオちゃんがウナっていたのは、ワーグナーじゃなかったかな?)。
仲井眞クンの論も種々手を尽くして風呂敷を広げようとしていているところには、論文を書き慣れてきた手応えを感じるものの、いかんせんテクストの言葉がそれに応じきれていないので説得力が殺がれてしまうのだ。例えば森山大道や西山一夫の言説から、写真とは《時によって死んでいく、一瞬一瞬》の「形見」だと引いているけれど、(この把握はつい最近、ヌード写真がらみでミチル姉さんからご教示いただいた見解に重なって面白い)写真論がテクスト考察につながっている感触を覚えないのだナ。
でもこの調子なら、素晴らしい作品に出遭った時に、仲井眞クンの迫力ある論考が読める可能性を感じられるので、次に期待しちゃうネ。