【読む】檀一雄「花筐(はなかたみ)」

今日は突然、小学校の同級生だった女性から手紙が届いてビックリしたヨ。マエタカ(前橋高校)の同窓会名簿でボクのことを調べ、自分の消息を報せてくれた内容だった。驚いたのは中学の頃に宇都宮に引越して宇都宮女子高を卒業し、跡見短大を出て宇都宮に住んでいるということ。向かうもボクが宇大にいたと知って驚いていたけどネ。

ボクの本を読んでくれると言っていたし、講演会があれば聴きたいと言ってくれたけど、もう授業も講演会もやることないだろうと応えたヨ。宇大時代だけでなく、学大に移ってからも宇都宮で講演したことは一度ならずあったのにネ。一昨年は宇大の学会で発表したけど、時すでに遅しだネ。前から連絡し合っていれば、聴いてもらえたのにネ。

ともあれこちらの消息をA4に3枚ほど書いて明日投函するけど、お蔭でブログ更新の記事が書けなくなった。というわけで、学大の大先輩の宮腰賢先生から檀一雄「花筐」の読み方について問われたので、その応え(答え)を貼り付けることにした。檀論は『シドクⅡ』について『解釈と鑑賞』に載せた「夕張胡亭塾景観」と「火宅の人」論の2本を収録したけれど、前者の論で「花筐」についても少々触れたので、作品を読んでくれた上での質問だった、ありがたいネ。お蔭で「花筐」についての、さらには檀一雄についての考えが深まった気がしたヨ。

檀の初期作品は三島由紀夫以上に「ロマンの香り」が高いと思うけれど、檀の研究者はほとんど見かけないのが残念でならない。以下を読んで檀一雄の作品の読者になってくれると嬉しい。「花筐」は一昨年だったか、余命長くないと宣言された大林宣彦監督が映画にしたので、見た人・知っている人もいるかもしれない。映画より小説の方が面白いのは常のこと(むかし記した「それから」は例外)ながら、「花筐」の原作は質問されたように分かりにく作品ではある。でも三島ファンなら伝わると思うヨ。

ともあれ「花筐」以前に上記2作品を読んでおいてくれると嬉しいネ、これも映画になった「火宅の人」の人は長いけど、読みだすと止まらないヨ。

 

「ロマンの香り」は言葉に歴然と現れていますが、慣れないと気付きにくいことと思われます。

ただ登場人物が「夕張胡亭塾景観」とは異なって若い者ばかりなので、青臭い表現が頻出してケン爺の理解を拒んでいるものと思われます。

 

頻繁に出てくる「海」1つとっても、憧憬の思いを表すものとして三島と共通しています。

その手の言葉を列記すれば、

 感受性(感性)・奔放な情熱・覇気・孤独(淋しさ)・白・ダンディズム・血・死などです。

アムステルダム・スイス(や聖書)は異国趣味において、常套言葉です。

授業放棄や煙草はお気づきのとおりで、《非日常》や《反逆》において常套語でしょう。

「道化」の阿蘇は、馴れ馴れしさ(日常性)としてむしろ排除される存在と思われます。

ロマン=憧憬ですから《距離感》が大きいほど良いわけで、エキゾチシズム(異国趣味)を始めとする《非日常性》も《距離感》の別の表現です。

 

結核はヨーロッパにおいて高貴な病として美化されながら芸術に昇華され、そのまま日本に移入されて軽井沢作家に典型的に現れています。

スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』の指摘を、柄谷行人が『日本文学文学の起源』収録の「「病という意味」で援用しています。

本作では喀血のみならず、鼻血など「血」が「死の病」としての結核にシンクロしながら美化されています。

吉良の写真の裏に付いた「血」(だと思われます)も同様の文脈で読んでもらいたいのでしょう(ツマラナイと思いますが)。

美化された「死」の対概念としての「生」が、「生命」という言葉と共に賞賛されるのも決まったパターンでしょう。

病弱な吉良が鵜飼の「生命」を絶賛するのも、このパターンです。

何でも過剰ですが、「美しい(美しさ)」という言葉が異常に使用されているのも、日本浪曼主義の常套手段だと察しています。

三島も好きな(私は戦後の作品の方が好きですが)伊東静雄の「わが人に与ふる哀歌」が、

 太陽は美しく輝き、あるいは太陽が美しく輝くことを願ひ

などが著名な例でしょう。

 

ともあれテクストから順次拾ってみます。

 感受性の隅々までが何の隠蔽もなく放置され、

 体内には(略)充実感がみなぎっていた。

 はげしい覇気はもう小さな椅子の上で爆発しかけている。

 浪費に近い感性の放射

 頬は紅潮して、顔いっぱいに奔放な情熱が漲っている。

 「あいつが美しいのは、孤独だからだ。いや目的のない体力なんだ。浪費家さ。(略)」

 線路を死を賭して渡る場面→「死」に近づくことで活性化される「生」

 冒頭近くの白い霧・顔色が白いの「白」がここでも白い線路として現れ、後で白い包帯(包とは違う漢字ですが)としても出てくる。

 「白」は純潔のイメージでロマン主義の色として使われます。

 論に引用した《鵜飼には生命しかない。あんな美事な生命という奴は(略)。ところで僕には何もないよ。》

 

 

 鵜飼は馬乗りになって、吉良の頬をヒシヒシたたいた。

という場面は「殉教」の畠山(榊山に類似した響きの名)が亘理をイジメル場面を想起させます。

亘理と同様に吉良は無抵抗ですが、このもつれ合う少年同士が醸しだすのがホモ的雰囲気だとすれば、両方とも私の理解の外です。

テクストの始めの方にオスカー・ワイルドの名が出てきますが、ワイルドもホモだったので意識的に関連させているのかもしれませんが不詳。

吉良と他の少年との関係は、「金閣寺」における柏木と溝口との対比を思わせるので、檀と三島は深いつながりがあると思えてなりません。

などと「説明」を考えているうちに、とっても勉強になりましたが、論文にするまでには至りません。