「朝鮮」に帰国して行った同級生  「自分史」からの証言

「自分史」という言葉が流行った時期があったけど(今でも?)、フツーの人が自己の生涯を書きとめておくということで、ボケ防止や老後の生きがいにつながるという意味でも評価されていたようだ。ボクの場合は研究成果をまとめたものがそれに当る気もするし、間もなく出る3冊目の『シドクⅡ』は随所に「自分史」的な面も意識しつつ、学部2(3)年目に書いた三島由紀夫論も収録させてもらった。

それは別にして、「自分史」というより自分が生きた時代の証言を残したい気持が強くなったのは、トシ(加齢)のせいなのだろうか? きっかけとなったのは、定年退職の「最終口演」の「口演」内容の希望アンケートに応えて「自分史」を語った時に、自分の誕生以前のことを念頭に仏壇を調べたことにあった。

幼い頃から仏壇を見るたびに、中学生のような少年の写真があったのを忘れない。とても可愛らしい少年だったけど、それがアメリカ軍の前橋空襲時に15歳で死去した叔父(6人兄弟の長男だった父親の最年少の弟)だということも教えられていた。名は芳平だけど、「平」は祖父の南平(ヘンな名前!)の1字から付けられたものと、今になって気付いた。位牌には前橋空襲が8月5日とあるから、終戦の10日前に亡くなったということであり無念でならない、あと10日生きていたら!

 

続いていろいろたくさんの想像が湧き出してキリがないので本題に入るけれど、本題はいま問題になっている朝鮮半島と日本の関係だ。先日、小学校の同級生から60年ぶりに手紙をもらい、当時の他の同級生の中に気になる存在がいたことが想起されたのだった。その時に突然思いついたということではなく、時々思い出しては気持を暗くしていたことだ。

小学校5年生の頃だったと思うけど(昭和35年ころ)、同級生の高島瑛美(エミさんだけど漢字は違うかも)が突然「朝鮮」に帰国することになった。今でも顔を思い出せる可愛くていかにも「朝鮮人」という(ボクの)イメージの女子だった(目が細くて一重)。当時は朝鮮半島は南北に分離されていたけど、多くは「北」に帰って行ったというのは後から知ったこと。今では信じがたいだろうけど、韓国が日本の賠償金によって故・パク大統領の下で「奇跡の復興」をする前までは、北朝鮮の方が国力があった上に「理想の国」のイメージがかぶされていたそうだ(まだ日本でもマルクス主義が信じられていた時代だ)。

 

中学生になってからも「朝鮮」に帰国する「在日」の子供たちが話題になっていたけど、よく覚えているのは大柄で強そうなが先輩が朝鮮に帰国して行ったことだ。乱暴そうな「不良」だったので、イジメられる機会が無くなった点では内心ホッとした感じがしたのを覚えている。帰らなかった「朝鮮人」の中には、「不良」に限らず仲の良い友達もいたのは、名前から推して何となく察していたものだった。でも百済の時代から混交し始めた大和(日本)と朝鮮の民族なンだから、過剰に民族意識アイデンティティ)を持たずにフツーに暮らして行けばイイじゃん、と思っているネ。

小中学生に限らず、「朝鮮人」らしい人たちは周囲に少なからずいたのも感じていた。分かりやすかったのは、犬(狗)を食べる人の存在が都市伝説のように子供たちの間に広まっていたことだ。それが食文化から朝鮮族(の一部?)の人たちだと結びついたのは、後からの知識だった。中国では(地方によって)フツーに犬を食べるというのはよく聞く話だけど(蛇をフツーに食べる文化もあるけど)、食文化の差異を差別に転じるのは精神年齢が幼稚な証拠。

 

「朝鮮」に帰国する運動は北朝鮮とその支持者によって進められていたということは、先般NHKのテレビ番組で詳しく知った。驚いたのは「北」の実態が伝わってくるにしたがい、帰国する人が減り続けてほとんどゼロになってしまったという。北朝鮮からは減ることを許さないと言われ、仕方なしに北の支持者たちが自分の子女を送らざるをえなくなり、泣く泣く「帰国」させ(し)たところ悲惨な運命が待っていたという話だ。

番組では日本人で朝鮮人と結婚した女性も取り上げられ、意に反して帰国船に乗せられてしまったものの、餓死者が出るほどの国にはいられないと日本に帰ってきた人の証言もあった。同級生だったエミちゃんの運命も明るいものではなさそうなので、思い出すたびに暗い気持になってしまう。ボクのジンセイに落とす暗い影は、語りつがなければならないと思うのだナ、過ちをくり返さないためにも。