古市憲寿を甘やかせるメディア  そのまんま東の馬ヅラ同然で、見るに耐えなくなった

 『シドクⅡ』に集中して読めないままの新聞がさらに溜まっている。「さらに」というのは、この数年溜まったままなのに(殊に書評欄は5年分以上はある)、その上に溜まるのだからタマラナイ。ともあれ9月1日の「文化・文芸」欄を見たら、「古市憲寿さん 芥川賞の選評」とあるので、今頃何ごとか? と読んだら遅ればせながら古市騒ぎの内実の紹介だった。(それにしても何故いま頃? とも思ったけど、性懲りもなく2回目なんだネ。)

 文壇は芥川賞で昔から話題作りをして《売る》努力(?)をし続けてきたけれど(一方の詩壇は作家の詩に対する評価はキツイ)、今度は古市にまで小説を書かせて話題作りをするまでに落ちぶれたものと呆れてブログにも記したものだ。又吉直樹がバカ売れしたので、2匹目のドジョウをねらったのかもしれないけれど、又吉は昔からの文学好きで積み重ねもあったからスンナリ受賞できたものの、古市にはそんな経歴を聞いたことがない。 

 師匠の(?)上野千鶴子も若い時は短歌を詠んでいたと聞いたけど、俳句や短歌は短いだけにハードルが低いからシロウトにも作れるものの、小説は基本的に積み重ねが無いと無理。にもかかわらず1度でこりずに古市に2作目を書かせたというのだから、死んだばかりの安部譲二の「塀の中の懲りない面々」じゃないけど、文壇という「塀」の中で自己閉塞している連中は「懲りない」ワガママ者が集まっているのだネ。

 詳細は朝日新聞を読んでもらいたいけど、古市の2作目は2012年の『文學界』に発表された木村友祐さんの作品を元ネタにして書いたとのこと。『文藝春秋』(9月号?)の選評で、山田詠美は元ネタの木村氏の方が「はるかにおもしろい」し、「考えると哀しくなって来る」とまで言う。吉田修一は「盗作とはまた別種のいやらしさを感じた」そうで、川上弘美は「木村友祐さんの声が、(略)ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまった」と指摘し、「ものを創り出そうとする者としての矜持に欠ける行為」とまで断じている。

  

 唯一、奥泉光がコラージュとして受け止めれば、肯定的に捉えられると弁護している。ちなみにコラージュは主に美術の手法として使われるけれど、小説では初期太宰が《方法実験》の1つとして『晩年』の冒頭作品「葉」で試みた方法で、要するに引用の羅列だネ。昭和文学会で講演したこともある奥泉は、インテリで方法意識も強いから好意的な弁護をしたのだろうけど、悪意を持って察すると自分たちもデビューするに際しては、先輩たちに弁護されたことを想起した上での古市弁護だったのかもしれない。

 芥川・直木賞はメディア各社が自分の会社から(順に?)受賞者を出し、新作家を育てながら《売る》ことになっているとは周知の事実(?)。奥泉も含めてどこのメディアが古市を引きずり出したのかは知らないけど、先般のブログに記したオバハン連中だけでなく、古市のワガママを放置するだけでなく増長させようとしているモノ共がいるのは不愉快であり・迷惑な限り。「文学をナメンなヨ!」と言うところ。

 

 新聞には古市の顔写真も載っていたけど、貧相なツラが一段と汚くカワイソーに見えてきたものだ。横暴な発言で180度も評価を落としたそのまんま東(国原)のバカヅラが、一段と汚い馬ヅラに見えてきて見るに耐えなくなっているのと同じだネ。