話そうと思っていた、講演の内容途中ながら以下に記しておきます。
《出版記念講演会》
『太宰・安吾に檀・三島 シドクⅡ』(鼎書房)のテーマ(?)=後付け
- 日本文学における《同一性の連鎖》
《同一性》=主人公・他の人物・語り手・作者・作家、それぞれの距離が失われて行く(重なる)
典型が私小説→「他の人物」以外が重なりがちなのは分かりやすいと思う
「他の人物」は最初から主人公に近い立場にいるか、当初は対立したとしても結局は主人公を認めるようになる。
(例)志賀直哉「和解」「范の犯罪」、太宰治「人間失格」「姥捨」
安吾作品は(図らずも)《ノイズ》を呼び込んで《同一性》を破る
(例)「真珠」のガランドウ=テクスト上、必然性が無い
「紫大納言」「二流の人」=遠心的世界(まとまりがつかない世界)
(例外)「風博士」「桜の森の満開の下」=求心的世界→安吾作品では例外的に《同一性》の世界=風博士と語り手の一致、風博士と蛸博士の相補性
=登場人物が主たる津田をはじめ互いに相対化し合う
漱石が「明暗」に至るまでには、「猫」や「坊ちゃん」など《同一性》の世界が続いた。直前の自伝的作品「道草」で己れをモデルにした健三を時間的に(育ての親たち)、かつ空間的に(妻)相対化した結果。
(拙論「漱石の話法について」、『宇大論究』2017・12)
漱石作品の《同一性》=坊ちゃんと山嵐、「猫」における苦紗弥ら書斎知識人
「門」の宗助夫妻の《同一性》⇔「道草」の健三夫妻=相対化し合う