出版記念会の講演(で話せなかったこと)   

 学芸大ではレジュメを用意できなかったので、宇都宮では何とか以下のものを作って臨みました。とはいえやはり反分も話せないうちに時間がきてしまいました。講演よりは口演の人のようです。    

 

    《出版記念講演会》(セキタニ・イチロー) 

                          2019・11

 

  『太宰・安吾に檀・三島 シドクⅡ』(鼎書房)のテーマ(?)←後付け

 

  •  日本文学における《同一性の連鎖》

《同一性》=〈主人公・他の人物・語り手・作者・作家〉それぞれの間の距離が失われて行く(重なる) 

典型が私小説→「他の人物」以外が重なりがちなのは分かりやすいだろう

     〈他の人物〉は最初から主人公に近い立場にいるか、当初は対立したとしても結局は主人公を認めるようになる。

     (例)志賀直哉「和解」「范の犯罪」、太宰治人間失格」「姥捨」

 ② 坂口安吾の位置付け

  • 日本文学に一貫する《同一性の連鎖》を断ち切る存在としての安吾

  安吾作品は(図らずも)《ノイズ》を呼び込んで《同一性》を破る

   (例)「真珠」のガランドウ=テクスト上、必然性が無い

      「紫大納言」「二流の人」=遠心的世界(纏まりがつかない世界)

     (例外)「風博士」「桜の森の満開の下」=求心的世界(完結感)                                    

安吾作品では例外的に《同一性》の世界=風博士と語り手

   の一致、風博士と蛸博士の相補性

  • 文学史上、最初に断絶した最初の作品は漱石の「明暗」の相対世界=

  =登場人物が主たる津田をはじめ互いに相対化し合う

 漱石が「明暗」に至るまでには、「猫」や「坊ちゃん」など《同一性》の世界が続いた。直前の自伝的作品「道草」で己れをモデルにした健三を時間的に(育ての親たち)、かつ空間的に(妻)相対化した結果、「明暗」の達成が果たされた。

(拙論「漱石の話法について」、『宇大論究』2017・12)

 漱石作品の《同一性》=坊ちゃん(江戸幕府)と山嵐佐幕派会津)、「猫」における苦紗弥ら書斎知識人

「門」の宗助夫妻の《同一性》⇔「道草」の健三夫妻=相対化し合う

つまりは漱石の《同一性》の世界破壊は方法的→安吾と違って意識的

 

 鷗外にも《同一性の連鎖》を断ち切る傾向がある

 「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」の改稿

=求心性(整序化された世界)の脱臼

  (何故?)鷗外の平衡感覚=意識的

       安吾の分裂気質(スキゾフレニア)=無意識・天性

               →ノイズを呼び込む

* 日本文学における《同一化の連鎖》   志賀と太宰の場合

=主人公・語り手・作者・作家が同一化しやすい〈他の人物〉との場合

 「范の犯罪」の裁判官(他の人物)が范を〈無罪〉と記す。

 「城の崎にて」で自分(主人公であり・語り手)が種々の動物に

《同一化》する(距離を失う)

 「暗夜行路」の末尾で、妻の直子が謙作に〈随いて行く〉と思う

  • 太宰治 〈私小説のパロディ〉としても意識的に《同一化》を図る

=主人公や語り手が敢えて「太宰治」と名乗る

 〈他の人物〉の場合

 「ヴィヨンの妻」が夫に〈人非人〉でも生きていけばいいと言う

人間失格」のバーのマダムが葉蔵を〈神様みたいな〉と言う

 「畜犬談」の〈私〉がポチに寄り添い・守る(距離を失う)

  • 村上春樹(未考) 語り手・作者・作家の《同一化》を断ち切る?

=非日本的な物語作家と思われてはいるものの?

・初期は一人称小説が多い→〈語る僕〉=〈語られる僕〉

 〈他の人物〉との場合

  初期作品における〈僕〉と鼠との《同一化》

  女と意味無くセックスする(距離を失う)

 (例)「ノルウェイの森」のレイコとの性交は必然性がない 

 

@ 『シドクⅡ』後の課題=日本語の特性から生じる日本文学の特質

* 学大会場の講演会直前にもらった西村友樹雄クン(一橋大院博士課程)からのメール。西村クンには、博論のテーマであるジッドの音楽論を、ヒグラシゼミで1度ならず発表してもらったことがある。

  《漱石の「道草」(の仏訳)も読みましたが、翻訳が完結明快すぎてぜんぜん漱石を読んでいる感じがせず、すぐに読むのを辞めてしまいました。「道草」そのものというより、明快でない部分、冗長な比喩等々をあらかた削除したものを翻訳しているような、そんな印象でした。》

(I・S) オノマトペが多いことにも現れている、日本語の主観性=telling⇔showing =ミメーシス(描写)が基本である西欧語の客観性

(I・S)「大鏡」をはじめ、歴史も見聞した者が語る日本文学⇒「ロビンソン・クルーソー」を翻訳するにも、原作にはいない《語り手》を設定しなくてはいられない(と教えられたことがある)日本文学

 

 この後、中山眞彦「作品の中の『私』―-『伊豆の踊子』とその仏訳」(『現代文学』1983・11)を紹介しながら、日本語と西洋語(日本文学・文化と西洋文学・文化)の差異を考える予定だったものの、そこまで行くにはあと2時間は必要だった。

 ともあれお手許にある(あれば)『シドクⅡ』を実際にお読み下さい。