【『シドクⅡ』の反響】文学研究専門でない人の感想

 ありがたいことに、その後も多くの方から嬉しい感想をいただきながら紹介できなかったのは、ただでさえ忙しい年末ながら仕上げの(?)28日には釣り部先で尿管結石を発症し、その後は身動きどころか頭が十分に働かなかったからだネ(何度も書いたとおり)。

 今回は近代文学研究の専門家の反応ではなく、一般の読者へ《開かれた書》であることを意図した本書がどれだけ届いてくれたかを紹介したい。専門家は思想性(イドオロギー)や文化等々その専門的な立場に阻まれ、テクストを細部にわたって読み込む《シドク》の成果には付き合いきれない人が少なくないというのが実情だろう。作品論の時代・テクスト論の時代以降はテクストを読みこむという、文学研究の基本が忘れ去られて、流行の思潮を追うことに目が眩(くら)んだままという印象だ。最初の『シドク 漱石から太宰まで』の頃に指摘した《作品を望遠鏡で覗く》ばかりという傾向が続いているのが現況で、むしろ優れた歴史家(など)の方がテクストを読むことができる、という転倒に苦笑が洩れるほどである。文学研究は己れを忘れたまま、いつまで彷徨し続けるのだろうか?!

 

 例によって前振り(?)が長くなってしまったけれど、実は専門家以外の感想として「痒(かゆ)い所に手が届く」ような、本人も久しぶりだという手書きの長い手紙をいただき、それを紹介しつつ吾が身の幸福感を改めて噛みしめたい一心というのが実情かな。手紙の主はボクが7年間勤務した都立上野忍岡高校定時制の同僚だったアキラ君(実名は伏せる)からのもの。彼は大学院まで経済学の勉学を積み重ねた人なので、太宰や三島はともあれ安吾檀一雄はほとんど読んだことがないと断りながら、収録された「金閣寺」論について、

 《感服しました。人は処女作を越えることは出来ない、もしくは、処女作にはすべてがあるのかも知れません。これが二十歳の青年の作品とは思えない。「最後の書」にこれを入れた関谷さんの思いを感じました。》

 と、世の「文学通」が言うような、処女作にまつわるお定まりの表現(よく知ってるネ)で絶賛してくれた。褒めてもらって嬉しいながら、「処女作を越えることは出来ない」が当てはまっていては情けない、といったところだネ。さらに喜んだのは、アキラ君が「共感を覚えた」2つの点の中の1つとして、《開かれた書》を目指している点を上げてくれているのだネ。

 《私の属している社会科教育の世界は文学よりもっとひどく、社会を扱っているにもかかわらず、社会に通用しない研究論文・実践論文のオンパレードです。(略)書き手の実存と内容の深さがあり、かつ開かれた書になりうるものを私も書いてみたい(略)》

 本当にありがたい理解を示してくれてまぶたが熱くなりそうだけど、他の人には解りにくい指摘もあって嬉しい限り。

 《著者紹介に、都立上野忍岡高校定時制と記してあること、上忍の卒業生との交流が続いていることを知り(註~同窓会を続けていることを指す)、教員としての原点のありかも感ずることが出来ました。》

 著者紹介には連携教授だった一橋大学や、立教大学を始めとするたくさんの大学名を記さずに、定時制高校の名を記したボクの気持をズバリ言い当ててくれていて感激したネ。さらに「追伸」に《今回の帯のコピー、「又吉直樹さんにも勧めたい!」も決まってますよ。》とまで付け加えてくれているのだから、まったく言うことなし!

こんなに理解してもらえたのは、空前絶後だネ。