立大・博論(3) 渡部裕太  梅崎春生

 ②で記したように、この博論が何よりも評価されるべきは、審査員からもたびたび「蜆」論が話題に取り上げられたように、テクストと執念く(しゅうねく)取り組む姿勢と《読む》能力だ。学界のトップレベルの審査員3人に、テクストの意外な《読み》方において十分刺激を与えたという点だ。それも「◎◎によれば」と他人の理論に依りかかる類のサモシイ論じ方ではない。『シドクⅡ』の前書きの言葉で言えば、ヒトのフンドシによることなく自力で相撲をとる力量が、読む者を刺激し挑発するところがスゴイのだ。ボク自身学部生の頃から大好きな梅崎ながら、ユウタ君の「蜆」論を読んだ時は、正直梅崎研究において自分の出番が無くなったと感じたものだ。

 ただし副題の「語りえない〈空白〉を語ること」のとおりの論じ方で、目先の〈空白〉をたどるばかりでは最後の「幻化」の達成への転換が見えてこない。梅崎を論じた第一部全体を読めばそれが伝わってくるのかもしれないながら、発表を聴いたかぎりではそれが見えてこなかった。意見を求められた時に、《「幻化」という〈空白〉を埋める物語を語りきっていることを視野に置きつつ、目前の〈空白〉を語り続けた意義を論じていれば、より説得的な論となったと思う。》と言ったけれど、ボクの問題提起は伝わらなかったようで、《「桜島」の始発から「幻化」へ至る過程を論じる一般の論じ方は避けた》という応えだった。

 そんな当たり前のことを提起しているのではなく、「幻化」が〈空白〉を満たした物語だとすれば(ユウタ君は明言してなかったけど)、その表層のプロセスの水面下で〈空白〉それ自体を語り続けた意味を論じきっていれば、画期的な梅崎論となったであろうということなのだナ。

 

 《本論でいう焼跡文学とは、焼跡の空間的 / イデオロギー的空白性を作品に内包した文学であり、この空白を意識しつつ試みられた文学である。》

 表題の「焼跡文学論」の意味するところではあるけれど、「序説」とでも付さないと大風呂敷すぎて中身の貧相さが反照されてしまうだろう。審査の際に〈戦後派〉が話題に上っていたけれど、実は全く名前が出なかった三島由紀夫も「第二次戦後派」(すぐに消滅してしまった文学史用語)という〈戦後派〉だったのを忘れてはなるまい。三島も「焼跡の空間的 / イデオロギー的空白性」を語り続けた作家だとボクは思う。『シドクⅡ』の「金閣寺」論でも引用したように、主人公が《何か私の内に根本的に衝動が欠けているので、私は衝動の模倣をとりわけ好む。》(第七章)と語るのも、己の〈空白〉を自覚しているからに他なるまい。金閣寺を焼き尽くすことが、〈空白〉を埋める物語として読むこともできるだろう。ただ残念なことに、三島がこの〈空白〉を「イデオロギー」で満たしてしまった短絡を批判する観点を担保しておくことを忘れまい。

 

 最後に、ユウタ君が石川淳を取り上げなかった説明をしていた理由は十分伝わって来なかったものの、結論だけは鋭さを感じさせられたけれど、それを佐藤泉さんが《石川淳は割り切っているンだよネ》と言ってくれたらすぐ納得できた。ユウタ君の言葉によれば、《石川淳は戦後空間を対象化してしまっている》も佐藤説と連動させると、〈空白〉に浸かりきりながら〈空白〉を語りえなかった梅崎その他に比すと、石川淳は〈空白〉に浸ることなく距離を置いて見ることができたからこそ、その安定した立ち位置を獲得することができたのであり、そこから「焼跡」(戦後社会)を自在に〈見立て〉ることができたという次第ということになる。(ということで良いかな?)