【読む】『村上春樹と1980年代』(おうふう) 早川香世「踊る小人」論

 宇佐美毅さんと千田洋幸さんが監修している春樹論集シリーズ、全3冊中の最初のもの。続く「1990年代」や「二十一世紀」よりも読んでいる作品が多いので、論文も読みたくなるのも道理。あまり熱心なハルキの読者じゃないけれど、在職中は学生の好みに合わせながら最初の頃の作品集は授業のテキストにしたものも多く、したがって作品論にも関心があるわけだ。最近必要があって取り出してきた「1980年代」の中では、宇佐美さんの一般論以外に大川武司クンの「中国行きのスロウ・ボート」と「午後の最後の芝生」を中心に論じたものと、早川香世さんの「踊る小人」論は〈既読〉だった。2つの作品論の印象・評価は、とても良好だったという印が付いていた。

 千田研究室の属していた人など、知っている論者が多い中で次に何を読もうか考えているうちに、奇異な読後感が残っている「踊る小人」がどんな風に論じられていたかが気になり、早川論を覗いているうちに最後まで読んでしまった。大川クンの論もそうだけれど、ボクには思いもつかない発想で論じていて種々教えられるネ。

 

 《本作は、実際には、「異世界」の構築、提示よりも、むしろ「異世界」が歪み、変容していく過程が中心に描かれていくのであり、それは同時に語り手である「僕」の認識自体が「現実」/「夢」の間を動いていく過程なのである。》

 というのが読みの基本軸だけれど、教えれらたのは「僕」が小人のお蔭で女の子を「モノ」にしようとすると、彼女の顔が腐って溶け出す場面を《過剰なまでの身体性を導入していく瞬間》として捉え、象工場の記述が対照的に「身体性」が欠如している、という構図を指摘された時にはチョッと衝撃だったネ。顔が腐っている様子の描写が過剰すぎて理解できなかったけど、ナルホドそう対照的に捉えれば納得できたからネ。今さらながら授業の時にこの論文が出ていたら、と残念だったネ。読むに十分値する論だから、おススメだヨ。

 

 ただし気になったのは、どう見ても「ファウスト」のパロディだと思われるのに(授業では指摘したけど)、全然言及されてないことネ。ちなみに『村上春樹作品研究事典』(鼎書房)の解説(末國善己)を見ても、一言も触れていない。のみならず《著者自身の全共闘体験など、小人の寓意性の解読に目がいくだろう》などと、作者まで呼び込むという初歩的な誤りまで犯している。それにしても全共闘体験などを引き合いに出すなど、呆れてものが言えないネ。

 テクストは引用の織物だと想起すれば、己の思いを達成するためにメフィストフェレスに己が魂を売り渡す、というファウスト博士の物語をなぞっていることを知っておかねばならないだろネ。死んだ女の顔が腐って溶け出すという場面でも、その類の伝説なり物語なりを(特定しにくいかもしれないものの)前提に読まなければならないだろうネ。自分の読みに取り込むか否かは別にしても、知らないままなのは困るよネ。