【状況への失言】コロナを生かす(反省・自省の機会に)  《前・速・外・大》志向からの脱出

 昨日はブログ更新が前振りで終った感じ、言いたかったのはこのピンチを過去・現状に対する反省の機会にすべきだということ。漱石の有名な比喩、《日本は牛と己を比べる蛙のようなもので、いずれ腹が裂けて自滅する》(「現代日本の開花」から抄約)のとおり、近代日本(広くは世界)は《前のめり》の姿勢で駆け過ぎたと思う。前へ前へと急ぎ、発展することばかり志向した結果が現在の状況だ。国内では諸所の公害、地球規模では温暖化による人類の危機という状況下で生きることを強いられている。

 使ったことがないので詳細は不明ながら、スマホの送信が飛躍的に速くなったというのが話題になっていたけれど、「前へ」と共に「速さ」が大きな価値になり過ぎているのも問題だ。以前記したことがあるけれど、現在の新幹線でさえ速すぎると思っているボクとしては、リニアカーとかの開発でもっと「速い」電車の開発を進めているのだから同調できないのだナ。さらに言えば、地球を破壊する一方で地球外を目差す発想も理解できない、「外へ」という志向かな。ホームレスが世にあふれ、世界の人口の5分の1(?)が飢えているというのに、地球外に人類が生きる地を求めるという空疎な夢をむさぼる必要などあるはずがない。

 

 イギリスのEU離脱に典型される分離の志向も、当然だと考えている。中国のウイグル族への非道極まる弾圧や、ミャンマーにおけるロヒンギャに対する差別・排除の過酷な圧圧は周知だろうけど、最近ドイツやロシアから歴史的に圧迫され続けた悲運の国・ポーランドでも、少数民族に対する弾圧が取りざたされたので驚いたネ。国内では情報操作をして洩れないようにすべきだという勢力もあるそうだけど、もっと世界に知らしめるべきだと思う。これも最近知ったことながら、悲惨極まる内戦を経ていくつかの国に分離した旧ユーゴスラビアは、チトーという有能な大統領のお蔭で数々の民族が平和に統一国家を形成していたと教えられていたけれど、実はこのチトーが恐怖政治を断行していたお蔭で何とか統一を保っていただけという。奇跡の平和が、実は恐怖による統一を甘んじていただけだったとはネ。

 「大きく」というのも近代国家が成立し始めてからの目標となったお蔭で、小国が林立していたドイツやイタリアが巨大な国家として統一された歴史は、意外にまだ新しいことだ。この統一に破綻が見え始めたのはイギリスに止まらず、例えばスペインでは昔ながらのバスクカタルーニャ独立運動など、「大きな」統一から「小さな」独立へと価値観が移っているのは明白だ。グローバルが叫ばれる「大」の志向も、反省すべき時がきているということだろう。

 

 個人的には若い頃から(老荘思想の)「小国寡民」を理想視してきたけれど、現実には無理が多いのは承知ながらも《前・速・外・大》に対するアンチ・テーゼとして大事にしたいネ。現状を省みる時の価値の基準として、想起してもらいたい理想郷だネ。せめて部活の仲間とは「小国寡民」の豊さを楽しみたいネ、長くもない余生だけど(長も大に通じるから、ムダに長生きするのはゴメンだネ)。

 コロナはは日食の際に見えるものだけれど、人知が及ばない時代は日食が人類を滅ぼす神の意志だと恐れられた時代があった。コロナ・ウイルスも人類の現況を反省せよという神の意志として受け止めるという、フィクショナルな意識を持つのもこの際だからこそ大事だと思うヨ。