【読む】『太宰・安吾に檀・三島  シドクⅡ』(鼎書房)  目次と前書き

 気付いてみたら、もう出版してから半年近く経ったから、無料で公表してもイイ時期だろうと思いついたので、少しずつコピペしてゆくことにした。基本的には読み手を限っているブログなので、ここに公表することによって新しい読者の目に触れる機会は多いとも思えないものの、時に意外なブログ読者がいることを知らされて驚くことも少なくないので、そうした方々にお読みいただこう。

 前2著とは異なり、書店で売り場スペースを持たない出版社ではないので、未知の読者の目には触れないため、そうした読者との出会いは持ちえなかったのは残念ながらも、お贈りした研究者などの方々や購入していただいた人たちからは、少なからぬ感想を寄せていただき出した甲斐があったというもの。その一部はブログでも紹介させてもらったけれど、お好みによって特にどの論文を評価するかは意見が分かれたのは興味深かった。

 まずは目次と前書きから。

   

《前書き》

 

太宰治

 

 太宰文学の特質――志賀文学との異同を中心に

「春の枯葉」――〈善悪の彼岸〉を求めて

「如是我聞」――開かれてあることの〈恍惚と不安〉

   

坂口安吾

 

 安吾作品の構造――太宰作品と対照しつつ

 何やらゆかし安吾と鷗外――「白痴」・「二流の人」など

   

檀一雄

 

檀一雄の文学――〈断崖〉からの跳躍

「火宅」――〈泳ぐ〉人々

 

三島由紀夫

 

 三島由紀夫作品の〈二重性〉――「剣」・「殉教」・「孔雀」

「近代能楽集」の諸相

金閣寺」への私的試み(習作)

 

《後書き》

 

【索引】

 

 

 

 

 

 

《前書き》

 

 

    生涯最後の本

 

私にとって三冊目の、生涯最後の論文集である。 

五年ほど前に東京学芸大学を定年退職した際、ありがちな記念出版の論文集が脳裏をよぎらなかったわけではない。しかし果たして自他ともにとって出すに値するものがまとめられるか、といういつもの問いが思い浮かんだ末に見送ることとなった。生涯で最後の著書となるべきものなので、ことに自分なりに納得できるものでなくてはならなかったからである。太宰治井伏鱒二については書きたいことは尽くしたと思う一方、当時は坂口安吾に対する不可解さに答えが出しえないままだったこともあり、時期尚早と判断するほかなかったしだい。

さりとてその後の五年間、自分の安吾研究が進んだわけでもなく、太宰や井伏の論のように己れ独自のカラーが出せないまま、時間ばかり経っていくのが現状である。恥ずかしながらこの後にも安吾論に新たな展開ができそうもないまま、早くも古稀を迎えて心身の衰えを認めざるをえない。加速度的に進行するモノ忘れが何より心配だ。人名、特にカタカナ名がすぐには思い浮かばず、情けない思いにひたることが多くなっている。(しかしペンは握っても、車のハンドルは握らないのでご安心!)

 

もちろん今後も安吾を中心に研究を続けていく所存ではあるものの、論文を書く以前に厖大な安吾全集を読んでいく楽しみに止どまりそうである。というのも、日本近代文学に限らず論じるよりも単純に読むだけ、という関心の方がむやみと強まっているからだ。大好きな音楽や美術に関するものはしばらくおくとしても、日本の古典文学や世界の著名な作品を読めないまま死ぬのはもったいない、という思いである。在職中から買い溜めた雑書が放つ魅力に抗しがたい現状、一字一句を丁寧に読みがちな私には速読ができないので、残された人生の時間を考えると焦るばかりだ。

他方では、安吾を始めとして今さら自分の研究が進展する余地があるとも思えない。注文に応じながらも書きたいものに限り、それを書きたいようにその場限りに論じてきただけなので、他人でも使える方法(道具)が内包された研究でもない。作家や作品について《調べる》でもなく、ひたすら《読む》ことに徹してきただけだからである。マルクシズム、フロイディズム、フェミニズムジェンダー論、カルチュラル・スタディーズなど、学部生の頃から周囲に流行していた同調圧力には自然体で抗し続け、他人のフンドシで相撲をとる(論文を書く)のが恥ずかしく、苦手だったのだ。

ただし一つだけ明かしておけば、前著『シドク 漱石から太宰まで』(洋々社、一九九六年)所収の「和解」論には山口昌男河合隼雄両氏の読書(というよりテレビ番組)から得た知見を意識して取り入れた自覚はある。私小説として読まれてきた「和解」を、記号論的な《読み》によって換骨奪胎した際に、お二人の考え方が役立ったのは確かだ。この「和解」論が広く話題になった時に、「あなたまでテクスト論ですか?」という反響もあったものの、当人は蓮實重彦氏の漱石論には刺激を受けたものの、テクスト論一般に引き込まれたわけではなかった。ロラン・バルトは読まなくても、蓮實氏の情熱的な啓蒙活動によって「作者の死」は知らぬ間に私にも刷り込まれていただけの話だ。周囲に活発だった「テクスト論は是か非か?」などという愚かしい議論は、愚かな人間に任せて書きたいことを書いてきただけである。

 

職業的な事情を付しておけば、文学部ではなくて教育学部だけで三十数年間勤めてきたので、十年ももたずに変遷に明け暮れるそのつどの新しい理論を追っていては、教科書の作品を対象にして教材研究に没頭する学生たちに、有効な助言を与えることなどできないのだ。生徒向けの授業を課せられる学生たちに、テクストを文化や歴史・政治(権力構造)などに置き換える理論を伝えてもいたずらに混乱させるだけだからだ。

教材研究にとっては、昔ながらの作家研究も最近のカルチュラル・スタディーズも役立たないものの、「作家の死」やナラタージュ(物語)理論は有効ではある。その点では前掲の『シドク』の方針であった、望遠鏡(諸理論)ではなく顕微鏡でテクストを分析するという姿勢を継続しているつもりである。テクストの外側の歴史や政治・文化にばかり目を向けて「作品離れ」をするのではなく、テクストを読むこと自体の楽しさを本書で改めて伝えたい一心、ひたすらな思いだ。

 

    「シドク」とは?

 

「シドク」の意味するところは恐るべき後生の一人、安藤宏氏の書評の方が私自身の説明よりも意を尽くしている。

 

〈頭の中のポシビリティ(可能性)だけを無責任に言いつのる〉たぐいの〈恣読〉を排し、あくまでも〈作品の言葉から読みとれるプロバビリティ(蓋然性)に基づいた〉〈試読〉を提示してゆくべきこと(一四頁)、なおかつ〈区別が付かないことと、区別を付けないこととは自ずから異なる〉(一五頁)という信念のもと、あえて〈私読〉の批判を恐れず、批評的な分析にまで立ち入ってゆくべきこと。本書のねらいはまず何よりもこうした点に置かれているようだ。その意味でも、題名や帯のコピー、あるいは一見挑発的な「まえがき」の文体とは裏腹に、読み手は何よりも、あるべき「作品論」に関する篤実な提案をこそ本書から受け取るべきであろう。    (『解釈と鑑賞』一九九七・九)

 

 安藤氏の諸論文と同様、意を尽くした行文で付すべき言葉もない。もともとは故・饗庭孝男さんたちの同人誌『現代文学』に連載させてもらった「試読・私読・恣読」シリーズに由来する「シドク」ではあるものの、一部では普通名詞のように使われて卒論の題名にもなったと聞き、冷汗の出る思いであった。しかしひと頃の「こころ」や「春琴抄」についての論のように、恣意的な読みが無批判にタレ流される時代が再来しないとも限らない。本書がそうした〈恣読〉の流行から《作品を守る》防波堤になることを願ってやまない。改めて「シドク」と題した意図もそこにある。

 題名以外に安藤氏が例示している「帯のコピー」とは《糸井、まいったか!》であり、最初の書『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』(洋々社、一九九四年)の帯にも《お代は読んでのお帰りに》という文言が含まれていた。これらの言葉には達成感やテレのみならず、《挑発的な「まえがき」》に展開したように、紙資源のムダとしか思えない書籍の出版に対する警告も含めたつもりである。うかつに退職記念本を出せなかったゆえんでもある。

 ただこうしたコピーの文言に対しては、私の生涯で唯一オヤジという意識で接していた(口ウルサイが逆らえない)故・小池正胤先生のように、《あなたは立派な本を出しながら、ふざけた帯を付けているのがいけない》というお叱りも受けている。本書の帯を見たら、またオヤジから三度目の叱声が聞こえてきそうだけれど、《研究者の自己閉塞》を破りたい意図はくり返し強調しておきたい。

 

 ごく限られた読者しか期待できないまま、図書館に死蔵されるだけの研究書を出版するのは極力避けるべきだろう。今さらながら思い出されるのは、岩波書店の『文学』の編集を長いこと担当していた星野紘一郎氏の大改革である。一九八〇年代までの半世紀以上にわたって小冊子だった『文学』を手に取ってもらえれば分かるとおり、まさに《研究者の自己閉塞》で専門家(古典文学の専攻が多い)が専門的なテーマで論じた論文が並んでいて、岩波の権威をありがたがる読者以外の広がりが思い浮かばない。これをその後の《開かれた雑誌》に変革する考えをうかがった時には、まさに吾が意を得た喜び・爽快感を覚えたものであった。

幸い日本の近代文学の研究書は、他の分野に比較すれば一般読者に向かっていくぶんは開かれているだろう。前著の『シドク』も少なからぬ読者に届いた手応えを得て「望外の喜び」を味わったものであるが、本書はそれ以上に《開かれた書》になっているつもりでいる。太宰や安吾などの一般の読者に、作品に作家の痕跡を読むのではなく、テクストそのものを読む喜び、テクストの《細部を読む》楽しさを共有してもらえれば嬉しいかぎりだ。

退職が見え始めた頃に書いた論考について、私が最初に指導した宇都宮大学院生だった津久井秀一さんから、《最近書くものは研究というより、批評とかエッセイみたいですネ》と言われて気付かされたことがあった。「批評」を意識したつもりは皆無ながら、無意識のうちに想定する読者が専門家の枠から外へ広がっている、と自覚させられた思いであった。《研究者の自己閉塞》に対する批判が、自身に刺さっていたということだろう。「批評・エッセイ」が読んで面白いものを意味するとすれば、一般の読者が読んでも楽しめる研究論文こそが私の目指すところである。

 

〈間〉の領域

 

面白さに通じるかもしれない本書の特徴として、もう一人の恐るべき後生である山崎正純氏の指摘が想起される。『小林秀雄への試み』の書評(『日本近代文学』一九九五・五)の中で、収録されている「二つの実朝像――小林秀雄太宰治」について次のように語ってくれている。

 

二つの異質を比較することによって見えてくる両者の〈間〉の領域の魅力のようなものが漠然と感じられたように思い、(略)それ以後この一本の論考から受けた刺激の言わば持続力は半端ではなく、(略)変化の相においてものを見るというダイナミックな視点が、論者の足許を如何に危うくするかという痛い教訓と併せて、〈転位の様相〉を見事に炙り出していく関谷氏が、凡そ〈間〉と呼び得る態の不可視の領分を語るに傑出した名手であることを知らされたのであった。

 

太宰にも小林にも詳しい山﨑氏から、本人が気づくことのできない論の特徴を「知らされ」て驚いたものである。一個体内の時間的な〈間〉ではなく、二個体間の〈間〉の問題にスライドさせれば、本書でも太宰と志賀を比較したり、安吾を太宰や鷗外と対照させたりしているところに、山﨑氏の言う〈間〉に対する関心が現れているように思えて納得させられる。表題には現れていないものの、本書の「檀一雄の文学」でも三島由紀夫との異同に触れている。あるいは本書には収められなかったけれど、「〈殉教〉と〈転向〉 『沈黙』と『李陵』」(『現代文学史研究』二〇〇九・一二)でも、蘇武と李陵との〈間〉で苦悩する司馬遷を「炙り出し」ている。むろんプルタークの「対比列伝(英雄伝)」のひそみにならったはずもないけれど、改めてこの未読の古典を蔵書から取り出してみたりした。

 

    《開かれた書》

 

一般の読者にも《開かれた書》でありたいとは思うものの、売れれば好いというつもりは毛頭ない。何ごとも《量より質》を絶対の信条に生きてきた私としては、レベルを下げて読者を広げるという魂胆などありえない。作品から作家の実生活を読みとったり、ストーリーだけを楽しんでいる読者に、テクストの《細部を読む》喜びを味わってもらいたいばかりだ。NHKのEテレ「100分de名著」のMC・伊集院光さんの理解の速さと深さにはいつも感心させられているけれど(留年したために同級生になった内田樹も、出演した時に賛嘆していた)、私が勝手に思い描く理想的な読者像が伊集院さんだ。

別の具体例を出せば、熱狂的な太宰ファンでもある又吉直樹さんである。子供の頃からお笑い好きな私としては、シュールなコントを面白がっていたピースを最近見ることができなくなったのは残念であるものの、テレビで又吉さんの太宰熱を聞くたびに、この人はテクストの《細部を読む》楽しさを理解しているものと察している。日本の作家の中でも有数の文章家であり、並ぶ者のない〈女語り〉に典型される優れた〈文体〉の持ち主である太宰作品から、作家の告白だけを読んだり、ストーリーだけを楽しんで足れりとするのはもったいない限りだ。

太宰の文章や表現に着目する又吉さんは、スキャンダラスな物語内容から太宰を認めなかった昔の批評家・研究者の頑迷さをしなやかに超えている。かいなでの太宰ファンに止どまらない又吉さんは、作家の実生活ではなくテクスト自体の面白さに注目し・評価しているからだ。一時代前に盛んだった漱石研究が停滞している状況ながら、太宰研究は次々と新しい研究者が輩出して盛んである。それを下支えしている安藤宏氏や山﨑正純氏の専門的な鋭さが売りの論文ならともかくも、話題を広げながら分かりやすく書いているつもりの私の太宰論なら十分伝わる気がしている。伊集院さんや又吉さんに届けることができるなら、拙著をお贈りしたいくらいの思いでいる。

 

〈文体〉を味わう

 

最初の『小林秀雄への試み』を出版した時、畏れ多くも当の小林秀雄や師匠の三好行雄の〈文体〉を引き合いに評価してくれた方々がいた。もったいない話ではあったけれど、対照していただければ分かるとおり、私の屈折した行文は二人の大文章家とはまったく異質であり、歴史に残るお二人の〈文体〉に及ぶべくもない。しかし次著『シドク』に対する反響の中で、故・松本武夫氏が「シドク」に「詩読」という字を当てて〈文体〉を評価してくれたのは、井伏研究の一支柱であった氏が、収録されていた井伏論を褒めてくれた以上に嬉しかったものである。小林秀雄の拙著の帯に推薦文を寄せていただいた饗庭孝男さんも、及びがたい〈文体〉の人であった。恐るべき後生のみならず、良き師・先輩たちに恵まれた私の人生もまんざらではない。

 

楽家は同じ楽譜というテクストから、様々な異なった演奏を生み出して私たちを楽しませてくれている。例えば同じベートーベンのシンフォニーでも、往年のフルトヴェングラーの重厚な演奏と、現在N響の常任指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィのアップテンポで新鮮な演奏は、まるで違っていながらそれぞれが素晴らしい。テクストを読み解くのは頭の中でのインプットであり、その解釈したところを表現するのがアウトプットだとすれば、言葉の芸術である文学について「私読」を提出するには、論の言語表現にも意を尽くさねばならないと考えている。本書も作品の概略を付すなど読みやすくするとともに、文章の一言半句の推敲にも少なからぬ時間を割いた。研究者からは邪道だと批判も出るやもしれぬものの、文章を読む喜びを知る人なら楽しんでくれるものと信じている。

何はともあれ私の意図ばかり読んでもらっていても始まらぬ、具体例としてお好みの論からお読みいただくのが一番。本書の「如是我聞」論の副題を引けば、「開かれてあることの〈恍惚と不安〉」を抱きつつ、『シドクⅡ』を世に問うしだいである。さらなる楽しみを求める方々には、前著の『シドク』にさかのぼってお読みいただければ幸いである。

 

 

(注) 原則として作品の発表年月は当時の時代がイメージしやすい元号で、著書や論文が発表された雑誌のそれは西暦年を用いたが、月日など細かい情報はできるだけ省いて見やすくした(大正元年は大1と記号化した)。雑誌名は新字体に統一して略称を用いた。読者のために付したルビはカタカナで記した。

引用は全集など依るべきものを利用したが、若書きの再録である「金閣寺」論は当時の文庫からのままである。省略は(略)で表したが、「・・・・・・」は原文のままである。最近「欧米か?」と疑われる省略記号として「・・・・・・」を使用する愚鈍な傾向が目立つが、原文なのか省略なのか混乱の元なのですぐに止めるべきだ。