【読む】『太宰・安吾に檀・三島  シドクⅡ』(鼎書房)  「金閣寺」論と後書き

 

 「三島由紀夫全共闘」という映画の上映が機縁となって、三島が自衛隊員にクーデターを訴えながらも挫折し、 直後に切腹自殺した事件の意味を捉え直す機運もあるようだ。というわけで、その大問題を当時教養部の学生だったボクが、「金閣寺」を通して考えた論を読んでもらおう。『シドクⅡ』中ではこの論に一番インパクトを感じたと言ってくれた、当時からの友人もいたけれど、そこから成長できていないという皮肉ではないとのことだった。当初は収録を予定していなかった三島についての論も入れることにした際に、自分が文学研究をやることになったキッカケになった若書きも採録して、生涯最後の本のシメにした形になったわけだネ。

  この論も取り入れたことも含めて、最後の本にはボクの「生涯」が見渡せるように仕組んであるのだナ。論文のみならず、前書きや後書きにたくさんの固有名詞が現れるのもそうした理由からなンだネ。

 

 

金閣寺」への私的試み 

 

 

     1

 

その死よりも半年前に発行された『国文学』誌上で、三島は三好行雄氏と極めて興味深い対談を行っている。これは三好氏の的確な質問の仕方にもよるが、三島が已にあの死を念頭においているような発言が随所に見られる。

 

三好 自分に残されている可能性とか、そういうふうなものは……。

三島 全然、信じないですね。少しも早く死んだほうがいい。それはもう、源泉から遠ざかることですね、生きているということは。作者にとって、一番恐ろしいですね。

 

これを読んだ時、三島がまさか死のうとは誰しも思わなかったであろうが、彼の死の予兆は、その処女作の頃から感得されはすまいか。しばしば引用される『十五歳詩集』の「凶ごと」と題された詩にもこうある。

 

わたしは凶ごとを待っている

吉報は凶報だった

きょうも轢死人の額は黒く

わが血はどす赤く凍結した……。                        (最終聯)

 

三島がある時点で変った、とはよく言われるが、三島自身は一貫して「凶ごと」を待ち続けたのであり、それが潜在化している時期と、明確に表現されている作品との差があるだけなのだ。最近「金閣寺」を読み返した私は、三島の死の予兆を思わせる旋律を随所に聞いた。私はそれについて語ろうと思う。

 

     2

 

三島は、戦後社会を憎悪し、また戦後理念に対決しつつ生きたのであるが、「金閣寺」において、戦争及び戦後社会はどのように描かれているであろうか。

戦争、それは主人公にとって、絶対的存在の金閣と彼とを媒介するものであった。何故なら、戦火は彼を焼死させるだけでなく、金閣をも焼け滅ぼす可能性を秘めているからである。滅ぼすことにより全ての存在を相対化する戦火の下で、彼ははじめて金閣との共生感を得るのである。この時、現実の金閣は主人公の心象の金閣と一致し、美の象徴たり得ることになり、主人公の「美」という抽象的なものへの偏執は、金閣への偏執へと変る。

戦火によって共に滅びることによって得られた金閣との共生感という陶酔を被るものは、敗戦に他ならない。戦時下では「うつろいやすい美」として主人公を惑溺させた金閣は、八月十五日には、「敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶して」「堅固な美」に変化し、主人公は金閣との関係を絶たれた、と考える。

 

敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験にほかならなかった。今も私の前には、八月十五日の焔のような夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。                       (第三章)

 

三島はここで完全な肉声で語っている。周囲が、死の予感からの、精神的・肉体的痛苦からの、そして軍国主義からの「解放」に沸立っている時、三島の心中は、「焔のような夏の光り」に対比される虚脱感に領有されていた。そして「それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。」と念をおして、叫ばずにはいられなかったのである。この敗戦の衝撃が、三島の原体験を形作るのであるが、この間の心裡を彼は率直に語っている。

 

三島 おそらく、あとになっての感じでしょうけれども、「終りだ」と思っていたほうが、自分のほんとうの生き方で、「先があるんだぞ」という生き方は自分の生き方ではないんだ、という思いがずうっと続いていますね。いまだに続いています。          (前掲対談)

 

この対談で、三好氏が、三島における「明日がない」生き方の持続を「金閣寺」までに限ろうとしているのは、氏が「金閣寺」の小説的落ちを、あまりに素直に受けとったために陥った誤見であろう。

 

三島が、主人公の目を通して描く戦後への憎悪は、戦時に主人公(作者)の内に形成された価値観から戦後を裁く、というパターンで執拗に繰り返される。

次の二つの文は、同じ女を描写したものであるが、敗戦を境に描かれ方が一変する。

 

士官は深い暗い色の茶碗を捧げ持って、女の前へ膝行した。女は乳房を両手で揉むようにした。

私はそれを見たとは云わないが、暗い茶碗の内側に泡立っている鶯いろの茶の中へ、白いあたたかい乳がほとばしり、滴たりを残して納まるさま、静寂な茶のおもてがこの白い乳に濁って泡立つさまを、眼前に見るようにありありと感じたのである。

男は茶碗をかかげ、そのふしぎな茶を飲み干した。                (第二章)

 

あの印象があまりに永く発酵したために、目前の乳房は、肉そのものであり、一個の物質にしかすぎなくなった。しかもそれは何事かを愬えかけ、誘いかける肉ではなかった。存在の味気ない証拠であり、生の全体から切り離されて、ただそこに露呈されてあるものであった。    (第六章)

 

前者の、極度に官能的な描写は、主人公が金閣との共生感に酔っていた頃、垣間見た光景である。後者は、女が主人公に対してその光景を再現しようとするのであるが、すでに乳房は「誘いかける肉体」ではなくなり、金閣(今や主人公とは隔絶した存在となっている)へと変貌してしまう。この変質は、前者では主人公が証人(見る立場)に止まるのに対し、後者は参加しようとする点に由来することで意味を持つ。しかし、強調されなくてはならないのは、戦時下の光景では、絶対的存在との共生感があり(主人公にとっては金閣であり、三島にとっては天皇)、絶対という禁忌が存在するが故に、エロチシズムが成立し得たということである。タブーの存在により、かえってイマジネーションが生彩を帯びている前者に対し、「すめろぎは人となりたまひし」(「英霊の声」)戦後では、禁忌が消滅するのに呼応して、エロチシズムは生じてこないのである。したがって乳房が「生の全体から切り離され」てしまうように、主人公(三島)も「生の全体」を獲得できないのである。

総じて三島の作品には、海が憧憬をもって描かれ、「金閣寺」において、主人公にとって故郷の海は、パトスの源としての意味を付与されている。しかし、戦争が終って訪れた主人公の眼に映ずる舞鶴の海は、「海の匂いというよりは、無機質の、錆びた鉄のような匂いがしていた」「ここにはたしかに平和があり」、「多くの米国兵が往来していた」すなわち戦後が訪れてきたことによって、主人公の情念の源泉であった海までが近代化され「死んだ水面」を醜くさらしていた。三島がこのように海を描いた例は、他にまずあるまい。主人公は、由良まで行き「肌理の粗い、しじゅう怒気を含んでいる、あの苛立たしい裏日本の海」に接することにより、自らの源泉に触れ、漸く「金閣を焼かなければならぬ」という啓示を得るのである。

 

母を醜くしているのは、……それは希望だった。湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。

(第八章)

 

一般的には肯定的価値を持たされる「希望」が、このように「醜く」描かれるのは、三島が「希望」という言葉に、戦後の匂いをかぎとっているからである。戦争中は、共同体内における共生意識が支配的であった。そこに価値を見出す三島にしてみれば、個人的レベルでの「希望」は、エゴイズムという戦後理念に基づく故に、否定されねばならないのだ。

さらに、戦後知識人に代表されるような良識や教養も否定されねばならぬ。主人公は、ある日放火魔と覚しき学生の後をつけるが、学生は点けたマッチで煙草を喫うだけで、念入りに火のしまつをする。期待を裏切られた主人公は、火を管理しようとする学生の良識的行為に「文化的教養」を見出し、憎悪する。そもそも金閣を炎上させる可能性を秘めている火を管理しようとする文化的教養に、三島は作中わざわざカギ括弧まで付して、戦後知識人の虚妄を揶揄しているのである。

 

     3

 

何か私の内に根本的に衝動が欠けているので、私は衝動の模倣をとりわけ好む。   (第七章)

 

三島の自己分析が、主人公の口を通じて、極めて魅力に富んだ逆説として語られている。三島は、ここで自らの空白について語っている。思うに、根本的な衝動に身をまかせて行動するのは、青春と呼ばれる時代である。三島の青春時代は、ほぼ戦争期に一致しているが、このことは、彼に衝動の自然な発露を許さなかったことを意味しないであろうか。結果として、三島は現実との接点を奪われ、自らの内に閉塞することになり、現実への行為は常に「衝動の模倣」を媒介にしてしか成立し得ない、というロマンチストたらざるを得なくなる。また、三島における自己劇化や型(様式美)の追求も、この「衝動の模倣」という言葉から導かれるのである。こうした傾向は、主人公には、「この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っている」と思ったり、突然故郷へ出奔したり、また授業料として渡された金を遊郭に使い果たそうとする行為として現れる。後者の場合「とにかくここで、金を使うことが私の義務なんだ」という義務感にまで高じるが、こうした律儀さには、三島その人の、固定観念をストイックに守ろうとする面が覗かれる。ともかく、死に際してのあの自己劇化、辞世の歌・切腹介錯という型への配慮等は、三島における「衝動の模倣」という衝動の根強さがよく現れていて興味深い。

 

     4

 

常識で考えれば、割腹自殺など少なくとも四十を越した一人前の人間のすることではない。しかし、三島は、一貫して一人前の人間であろうとしなかった。三島は、成熟を拒否した人である。と言うよりも、自らの中の絶対志向によって、成熟を阻害されたのである。成熟は、何よりも自己を自己として成立させようとする、潔癖な意志を持ち続ける者には訪れない。自己の独自性を捨て、したがって相対化されることを受け入れるところに成熟はある。しかし、彼はその死まで、若年に描いた自己像へアイデンティファイし続けた。このような人間に、成熟が訪れることなどあろうはずがない。

 

私の体験には、積み重ねというものがなかった。積み重ねて地層をなし、山の形を作るような厚みがなかった。                                 (第七章)

 

人は妥協という体験を積み重ねて成熟し、人生に参与して行く。体験の積み重ねがない以上、主人公が成熟と無縁であるのは言うまでもない。作品では、主人公は金閣の幻影によって人生に参与することを阻まれる。しかし、そうした客観的条件を待つまでもなく、成熟不能な主人公は、生の広がりを持てないことで必然的に人生から疎外されている。前節で触れたように、使命感を持ち続けるように自己劇化する傾向は、生な現実との触れあいを拒否するが故に、成熟への障害物となっている。

成熟はまた、母の懐からの自立であり、父の位置へアイデンティファイする意志を持つことから始まる。「金閣寺」に描かれる父は、父性をほぼ完璧に具現している。父親の「たとえようもないほど広大な掌」は、主人公に目隠しをして、母の不義を見ることを妨げる。しかし、彼は父の死に際し、涙ひとつこぼさぬことで「あの掌、世間で愛情と呼ぶもの」に対して復讐する。このことによって、彼は失われた父の位置に自己を置くことを拒むのである。

父のイメージとは逆に、母は常に醜く描かれる。「母に対しては、あの記憶(母の不義―筆者)を恕していないこととは別に、私はついぞ復讐を考えなかった。」と主人公は語るが、彼の行動は常に母の希望を裏切る方向へ進む。そもそも金閣を焼くことは、彼を鹿苑寺の後継ぎにしようとする母への復讐ではないか。母を醜くしている「希望」が、戦後理念を象徴するものであるならば、金閣を焼くことは、三島にとって戦後社会を焼け滅ぼすことを比喩したはずである。

 

     5

 

三島 (略)自己に不可避性を課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果ですね。ですけれどもそういう結果は、ぼくはむしろ、自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分で選んだことなんですから……生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。  (前掲対談)

 

この言葉を語った時、三島の胸中には、すでに割腹自殺のことがあったかどうかは解らぬが、「金閣寺」の三島からもあの行動の可能性は、十分うかがえた。それでは三島が「金閣寺」で憎悪した戦後社会、すなわち現代の社会とは、一体どのようなものか? それは自己疎外という言葉が流行するように、自己が自己自身であろうとするのを妨げるようなダイナミズムと構造をもっている。したがって、アイデンティティを獲得することは不可能なのである。三島の言葉で言えば「現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。」(前掲対談)ということになるが、これは例えば三島が接近した自衛隊そのものにも言えるのである。軍隊であるにもかかわらず、自衛隊は、近代的憲法によって「軍隊」というアイデンティティを獲得できずにいる。こうした自己の内外の状況は、常に三島を苛立たせ、駆りたてたに違いない。あのような行動で、三島が実質的な効果を期待していたとは考えられぬ以上、政治的側面からの批判は何ものも生まない。

 

金閣寺」の終結部で、あとはマッチをするだけという段階まで準備した主人公が、極度な疲労感におそわれながらも、行動に踏み切って行く箇所を思い出すがいい。

 

とはいえ、心の一部は、これからの私のやるべきことが徒爾だと執拗に告げてはいたが、私の力は無駄事を怖れなくなった。徒爾であるから、私はやるべきであった。        (第十章)

 

つまり、認識によっても、また行動によっても世界を変えることはできないことを主人公(三島)は知悉していたのである。もっとも三島の関心は、世界を変えるところにはなく、彼は何よりも自らの源泉にアイデンティファイする衝動を、鎮めようがなかっただけである。「仮面の告白」の主人公が、常に自己のソドミズムを隠しながらも、最後に「彼の姿から目を離すことのできない」自分に、アイデンティティを獲得していたように。

金閣に放火して、主人公は三島の究竟頂で死のうとするが、扉は開かない。これは、まさに主人公が美の象徴である金閣に、アイデンティファイすることを拒まれていることを意味し、したがって彼は火を逃れ、自殺用に用意したカルモチンと小刀を投げ捨てる。そして「生きようと思う」のであるが、自らの源泉へのアイデンティファイを諦めた者に、人生への参与が可能になり、日常生活の意識が復帰するのは当然である。小説の落ちとしては、こうした安易なヒューマニズムで逃れるのは常套であろうが、これは主人公(三島)が戦後社会を受け入れたことを意味し、こうした妥協は三島の本意から外れていたのは言うまでもない。「金閣寺」が発表された昭和三十一年から十四年後に、三島は割腹自殺で漸く自らの本意を遂げたのである。この時、彼は「金閣寺」で飲み忘れたカルモチンを仰ぎ、捨てたと見せ実は十数年間さらに磨きをかけた小刀で自らの義憤に満ちた腹部に突きたてたのである。

「三島よ、永遠に眠れ」とは言うまい。自らの「源泉」に執着を持ち続ける者の胸の中に、三島はいつまでも生き続けるのだから……。

 

 

《後書き》

 

最初に収録論文の初出事項(副題は略しつつ、雑誌名は新字体にして略名を利用した)と、簡単なコメントを付しておきたい。

 

太宰治

「太宰文学の特質」(『国語と国文学』二〇一二・四)

東京大学国語国文学会の求めに応じたもの。学会員の老化防止のための刺激として書かせてくれたものであろう。研究者だけに閉じることがなく、幅広い読者に《開かれた論》を意識して書いた姿勢が、本書全体の意向につながっている。研究者には苦い顔されても、一般の読者は楽しんでくれるものと期待している。しかし崇敬するインテリ研究者である渡邊正彦さんから、《他者・同一性・自己完結はなかなか重宝なアイテムと思われ》など過褒な言葉をいただいているので、意外に研究としてもイケテルのかもしれない。

ただし言語論的見地から言えば、大きな課題が残る。〈同一化の連鎖〉は日本語の特質であろうという予断が、私にはある。〈外〉への広がりを持たぬまま求心的に〈内〉に向かうため、言語も文化も〈同一化〉が進むことになる。だとすれば漱石が「明暗」でこの連鎖を断ち切ることができたのは何故か? 志賀や太宰とは異なり、漱石が長年欧文脈になじんでいたために、日本語・日本文化との格闘の末に「明暗」の達成が果たせたのか? 後の章の安吾(や鷗外)にも深く関わる問題ではありながらも、有効な論に出会えなかった。日本語という特殊言語にまといついているアポリア(難題)は私の手には余るものの、余生のボケ防止のためにも愚考を重ねていきたいと思っている。

「『春の枯葉』」(太宰治研究』二〇〇六・六)

初出題は「『春の枯葉』精読」で、初出末尾に付したとおり東京学芸大学在職中に顧問をしていた自主ゼミ〈昭和文学ゼミ〉の夏合宿(宇都宮大学の卒業生も合流)における議論を吸収している。いつもストレートな感想を寄せて下さる鈴木啓子さんからの、《作品論の醍醐味を見せられた気がいたしました。会話の綾を読み解いていく手際はさすがで、ぐいぐい引き込まれました》という感想には、《コシの強い文体ならではの力業》という評価ともどもとても励まされた。

「『如是我聞』」(『解釈と鑑賞』一九九九・九)

太宰治の謎」という特集号。当初は「二十世紀旗手」論を依頼されたものの、私には興味も論じる能力もない作品だったので、新進気鋭の大國真希さんを推薦して代ってもらった。その代わりに執筆者が埋まっていなかった「如是我聞」論を書かせてもらったしだい。

四度に一回くらいはお断りしたかもしれないながら、至文堂からの依頼のお蔭で論文を書く習慣を持続できたのみならず、井伏鱒二を始め多くの作家や詩人と出会う機会を与えていただいた感謝の気持を、当時の至文堂各位にお伝えしたい。

     *

前著『シドク 漱石から太宰まで』(洋々社、一九九六年)には以下の三本の作品論が収録されている。

「『ロマネスク』――〈無用の人〉たち」

「『女生徒』――〈アイデンティティ〉の不安」

「『桜桃』――揺れる〈人称〉」

 『小林秀雄への試み』(洋々社、一九九四年)にも次の太宰論が収録されている。

「二つの実朝像――小林秀雄太宰治

 

太宰治に関する論は、他に以下の四本がある。

「『苦悩の年鑑』」(『解釈と鑑賞』一九八八・六)

太宰治――昭和20年~23年」という特集号。論の冒頭を《つまらない作品である。》と始めているように、作品のレベルが低いと論じる意欲が殺がれるのが常である。打率の高い太宰にあって数少ない低調な仕上がりで、テクストの言葉に面白く読ませる力を感じないまま、《生身の作者のエッセイ》として読んだまでのもの。

「『富嶽百景』の読み方、教え方」(『現代文学史研究』二〇〇七・六)

初出に付したとおり、(故・中村三代司さんを介して)淑徳大学付属高校の先生方の研究集会における、講演と討議を踏まえたものである。テクスト末尾の「酸漿」の意味の解釈には新味があると思う。

「〈作家〉の痕跡 『右大臣実朝』と『吾妻鏡』」(『太宰治研究』二〇一三・六)

【作品とその生成要素】のシリーズとして、「吾妻鏡」との関連を論じるように依頼されたもの。単純に〈作品の生成〉を跡付けることよりも、原典との対照から新しい読みを探ったつもり。殊に公暁が他の登場人物に対してのみならず、テクストにとっても〈他者〉であるという読みが斬新か。

「『ダス・ゲマイネ』から」(『太宰治研究』二〇一七・六)

定年退職後に求められて書いたもの。二五号で終刊した年刊誌『太宰治研究』の記念と、太宰研究において育てていただいた恩を感じている山内祥史先生に対する謝意のために書いたもの。

最初に《今さら「ダス・ゲマイネ」のテクスト分析をする必要性も感じないし、その意欲も無い。》と明言しているとおりで、「太宰文学の特質」を書いた頃から既に太宰研究の意欲を失っていた。「ダス・ゲマイネ」論なら安藤宏松本和也両氏の論考で十分だとも考えていたので、敢えて今までの自分自身の読み方に反する書き方を選んだもの。《作中人物に当時太宰の周囲にいた実在の作家たちの姿》を読み取るという姿勢で読んでみた。事実に還元してしまう私小説読み方は認めない立場であるにもかかわらず、テクストから浮かび上げる檀一雄や山岸外史などの姿を楽しんでしまったというところである。

なお『太宰治大事典』(勉誠社、二〇〇五年)では、「日本浪曼派」と「如是我聞」の項目を担当した。

 

坂口安吾

安吾作品の構造」(『現代文学史研究』二〇〇四・一二)

自身の太宰研究が中だるみしていた頃に坂口安吾研究会に呼んでいただき、押野武志という逸物と出会って目覚めた思いで太宰や安吾を読み返した成果。安吾のテクストは「居心地が悪い」という把握に対しては、安吾研究者から少なからず共感の反応があった。

「何やらゆかし安吾と鷗外」(坂口安吾 復興期の精神』(双文社出版、二〇一三年)

坂口安吾研究会の求めで書いたもの。表題のとおりで、求心的でないテクストの在り方を示す、安吾と鷗外との共通性に気付いて書きとめたもの。先行する数多くの「白痴」論に欠けている、緻密なテクスト分析を提示しえた手応えと、先行研究が乏しい「二流の人」のテクスト分析を初めてなしえた達成感を持てたもの。

     *

安吾論としては他に、

「『イノチガケ』小論 安吾の書法」(『解釈と鑑賞』二〇〇六・一一)がある。

坂口安吾の魅力」という特集号。不十分な論考であることは自覚している上に、作品に魅力を覚えないまま、改めて書き直す気持も余裕もないので収録しなかった。右の「何やらゆかし安吾と鷗外」に少々引用してある。

 

檀一雄

檀一雄の文学」(『解釈と鑑賞』二〇〇二・五)

「日本浪曼派とその周縁」という特集号で、「日本浪曼派の人々とその周辺」としての「檀一雄」(初出題)の項目。至文堂編集部のお蔭で檀一雄文学と出会うことができ、とりわけ感謝しているものである。初期の檀の作品には、三島由紀夫以上のロマンチシズムが紛々と匂ってくる感じに圧倒される。三島論者を始め、初期の檀文学を論じる人が少ないのは残念だ。

「『火宅』」(『解釈と鑑賞』二〇〇八・四)

近代文学に描かれた性」という特集号で、初出題は「檀一雄『火宅』シドク」だった。檀一雄のテクストが十分に分析に価する、ということを証明しえた画期的な論だと自負している。しかし他の檀作品を論じたい気持がありながら、未だに果たせないままなのは吾ながら情けない。檀一雄が広く読まれ、批評家・研究者からも再評価されることを願ってやまない。

 

三島由紀夫

三島由紀夫作品の〈二重性〉」(『現代文学史研究』二〇〇四・六)

初出題の「三島由紀夫小説の〈二重性〉」のとおりであるが、三島テクストがリアリズム・非リアリズムの両様に読める可能性を秘していることを明らかにしたもの。若き三島研究者から、「豊穣の海」など他の三島作品にも当てはまる着想として刺激を受けた旨の感想など、少なからぬ反響があった。

「『近代能楽集』の諸相」(『現代文学史研究』二〇一五・六)

退職後の論考で、初出題は「三島由紀夫作品の諸相――『近代能楽集』各篇の読み方」だった。著名すぎる作品であり先行論文も多数ありながら、十分なテクスト分析ができているものが見当たらなかった。副題の「各篇の読み方」という上から目線のもの言いは、そうした傾向を正した達成感に依拠している。などと大言壮語するのは、学部一年生の時に故・木邨雅文と二人で北海道三週間テント旅行をした際に、唯一携行した文庫が「近代能楽集」であり、大学の授業でもテクストを十分に《読む》ことができずにいたものが、退職後にやっと論じきれた喜びからである。

「『金閣寺』への私的試み」(『まんどれいく』一九七一年*谷原一人の筆名〉

前橋高校の同級生・五十嵐昇君たちと、大学闘争が一段落した頃に出した同人誌に載せたもので、生涯最初の文学論考として記念のためのもあって収録させてもらったが、「近代能楽集」論や檀一雄「夕張湖亭塾景観」論の補足にもなっている。表題は専門課程進学後に師事した故・三好行雄『作品論の試み』の影響が露骨ながらも、内容は三好師の「金閣寺」論のような精密を極めたテクスト分析とはまるで異なっている。本論だけは当時の雰囲気を残すために、まったく手を入れていない、引用も文庫のままである。

マネをしたという先人は思い浮かばないけれど、大学二年目の頃に読んでいたのは江藤淳が多かったろうと思う。とはいえ江藤淳の影も見当たらないながら、後に日本を代表するブレイク研究者となる都立大院生だった大熊昭信さんが、「達意の名文」と褒めてくれたものである。キー・ワードの「アイデンティティ」も流行以前だった頃で、時代を先取りした論点だと思う。

ずいぶん前に本論を三島研究の支柱の一人・佐藤秀明さんに送ったら、《三島論はこの論からどこまで進んでいるのか?》という過剰な褒め言葉をいただいた。当時編集中の「金閣寺」論集成(大空社)にも収録したい旨も洩らしてくれたものの、刊行された論文集から本論が洩れていたのはシュウメイの正常な判断であった。

     *

三島に関しては他に、

三島由紀夫事典』(勉誠出版、二〇〇〇年)の「剣」と「裸体と衣裳」の項目を担当しているが、「剣」については本書の「三島由紀夫作品の二重性」でも展開している。

 

定年退職記念などの名目で、既発表論文を何でも収録して読者に迷惑を強いている著書も少なくないようである。本書はその愚を避けるべく、作家も論文も自分の守備範囲で精選したつもりではある。はずした論の中にも水準を超えていると自負するものもありながら、読者が少ない作家である等の理由で収録を避けた。明治から昭和までの小説や批評についての論ながら、種々バラついているので関心のある人だけが読んでくれれば好いと思う。その中から十編を厳選して示せば以下のとおり。

数年前に発行停止となった『解釈と鑑賞』(至文堂)は大学図書館なら備えているであろうが、一般の読者のためには立川の日本文学資料館などに完備されていると思う。『現代文学』は国会図書館だけにしか寄贈されていないこともあり、お読みいただけるのなら請求に応じてそれぞれの論文コピーをお送りする気持ではいるものの、個人的情報である住所を明記できないのが残念だ。

正宗白鳥論序章」(『現代文学』一九八〇・一二)

「『故旧忘れ得べき』【高見順】」

三好行雄編『日本の近代小説Ⅱ 作品論の現在』東京大学出版会、一九八六年)

「試読・私読・恣読(Ⅲ)――『歌のわかれ』」(『現代文学』一九八八・七)

「試読・私読・恣読(Ⅳ)――小島信夫『小銃』」(『現代文学』一九九一・八)

夏目漱石『行人』――〈二〉対〈一〉の物語」(『解釈と鑑賞』二〇〇一・三)

志賀直哉小僧の神様』精読」(『解釈と鑑賞』二〇〇三・八)

「服部達小論――吉本・江藤の先行者」(『解釈と鑑賞』二〇〇六・二)

「秋山駿――批評を可能にするもの」(『解釈と鑑賞』二〇〇六・六)

山本有三『嵐』シドク――〈自分探し〉と〈犯人探し〉」(『解釈と鑑賞』二〇〇八・六)

三浦哲郎ユタとふしぎな仲間たち』」(『宇大論究』二〇一〇・三)

 

収録された論の多くは学部・大学院の授業、あるいは自主ゼミや夏合宿における学生・卒業生たちとの間で〈読み〉の差異を楽しんだ成果でもある。例えば「火宅」論は、くり返し芥川賞を逸して最近は浦和で鍼灸院「豊泉堂」に情熱を賭けている松波太郎さんが、一橋大学の院生だった頃にレポーターだった彼との間で〈読み〉を競ったものである。先年《研究者は同時代の小説を論ずべきではない》という自らの禁を犯し、氏の『ホモサピエンスの瞬間』(文藝春秋社)の書評を書かせてもらったけれど(『図書新聞』二〇一六・六・一八。)、礼状に小説の読み方のみならず書き方においても院生時代の授業が役立っている、との世辞があった。その程度には社会人として成長しているのかと、教員根性を発揮して喜んでいる。

装丁してくれた金城孝祐さん(武蔵野美術大学修士課程修了)は、私が東京学芸大学在職中に顧問していた自主ゼミ「昭和文学ゼミ」を通じて知り合った画家であり演出家でもあり、小説や戯曲を書く作家でもあるという多才な人である(釣りは下手!)。私が小説よりも政治的発言に共感を覚える高橋源一郎さんに評価され、小説『教授と少女と錬金術師』(集英社)ですばる文学賞を受賞した有望作家ではあるが、今回は画家の才を発揮してもらうべく、装丁をお願いしたものである。

 

古稀を迎えて老い先を考えると、「生涯の秘密」を明かしておくべき時であろう。以下の論考は私以外の人が、私の名で書いてくれたものであることを告白する。

太宰治事典』(学燈社、一九九五年)中の「太宰治キーワード事典」における「自殺/心中」の項目

『日本文芸鑑賞事典 9』(ポプラ社、一九八八年)中の「地獄の季節」の項目

太宰治の方は見開き二ページのものであるが、東京学芸大学太宰治修士論文を書いた北川秀人さんが全面的に代筆してくれたものである。もちろん編集責任者の東郷克美さんの許可を得た上での仕業であったが、忙中ながら幸い北川氏に助けられて責務を果たすことができた。

小林秀雄の方は七ページのもので、宇都宮大学在職中にリンパ腺のガンで入院していた時、ランボーに無知な私に向かって小林秀雄研究者の津久井秀一さんがレクチャーしてくれたものをまとめたものである。九割がたは津久井さんの手柄と言っても過言ではない、感謝あるのみ。

 

思えばこうした若い仲間たちに支えられながら、何とか古稀を迎えることができたわけである。いや若い人たちに限らない。在職中に出した前二著の校正は主に当時の学生が中心となって助力してくれたが、本書の校正は何と職場の大先輩である宮腰賢先生からお申し出をいただき、そのプロ並みの能力に頼らせていただけたのはありがたいかぎり。お蔭で百に近い誤記を正すことができて恥をかかずに済んだのみならず、各論に対していただいたご評価にも力づけられた。二重三重のご助力を思うと感涙止めどない。

宮腰先生をはじめ、お世話いただいた多くの人たちにこの感謝の気持が伝わることを願ってやまない。

 

本書はむかし友人が大変お世話になったのが機縁となった、旧知の加曽利達孝さんにお願いして鼎書房から出していただくことになった。本造りに関しては《開かれた書》にしたいという私のわがままを快く受け入れて下さり、前著『シドク』の小粒ながら中身の濃いものという方針にならいつつ、望みうるベストの形の本にしていただき感謝の念で心が落ち着かないままでいる。

実際の本造りの作業を独りで担当してくれた小川淳さんには、過剰なまでに面倒をおかけしてしまい死ぬまで足を向けて眠れない。他人の本のために時間と情熱を割いてくれる、編集者という存在の不可思議さを改めて感じている。

鼎書房のさらなる進展を願いつつ、今後とも名著出版のためには積極的な協力を惜しまない所存でいる。

 

 二〇一九年八月   ヒロシマの日に 

                            関谷 一郎