【読む】『シドクⅡ』より太宰治「春の枯葉」論

 『シドクⅡ』の読後感を寄せていただいた中に、「春の枯葉」論が良かったという研究者の感想も嬉しかったネ。むかし夏合宿で取り上げた作品だけど、太宰の戯曲作品についての論文が少ないので、読み方の基本を提示しながら小森陽一などの誤読を排したもの。

 演劇の研究者がもっと太宰の戯曲を論じて欲しいものだと書いておいたら、後で現代の太宰研究を導いている1人・松本和也氏が「春の枯葉」論を発表してくれたので、後書きに紹介しておけば良かったと気付いた。代わりにこの場で演劇にも詳しい松本氏の論文を上げておきたい。

 「”太宰治戦後戯曲”を読むためにーー「春の枯葉」精読ーー」

               (『立教日本文学』第101号、2008・12)

  ボクの「春の枯葉」論の初出題も副題が「精読」だったので、松本クンが敢えて「精読」にそろえて覇気を示したとおり、ボクの読みには欠けているト書きなどの演劇的要素の読みも加えつつ、十全な論文に仕上げている。太宰の戯曲研究史に優れた論が生まれた契機となったとすれば、ボクも嬉しいかぎり。『シドク 漱石から太宰まで』に収録されている「桜桃」論も、勝原晴希氏(ふだんはカッチャんと読んでいる親しい後輩に「氏」を付けるのも照れる)がボクの論を批判しつつ優れた「桜桃」論を発表した縁を思い出した。

  

  「春の枯葉」――〈善悪の彼岸〉を求めて

 

 

     作品離れのオナニズム

 

 他の作家に関する研究が停滞している中で、太宰治研究は相変わらず活況が保たれているのは嬉しいかぎりである。山﨑正純・中村三春・安藤宏各氏らの秀でた論考が切り開いた地平に、新たに松本和也や大國眞希・斎藤理生各氏など若い世代が斬新なアプローチをしつつ結果を出している。美術に詳しい大國氏のものをはじめとして、近年先行研究に乏しい作品に関する論が展開されており、そのこと自体も太宰文学の評価を高めているという面も忘れるべきではない。太宰研究者は自信と誇りをもって各々の道を行くべし、ということであろう。

 さりとて数多ある太宰作品を覆い尽すのは至難であろうが、二作のみの戯曲作品に先行研究が少ないのはどうしたことであろう。戯曲研究家の怠慢なのか、太宰研究者の力不足なのか。作品自体が魅力に欠けるという理由でなさそうなのは、『明治大正の劇文学』(塙書房、一九七一年)の著者である故・越智治雄氏に卓越した「冬の花火」(昭21)論があるからだ。他の太宰テクストからも自在に引用しつつ論を構築していく手並みは、かいなでの太宰研究にとどまってはいない重厚さを感じさせる。とても半世紀近くも前の論とは思えない新しさを保持しているのは、(常に綿密極まる作品分析を提示し続けた越智氏個人の及びがたい才質はさることながら)この作品論を正面から受けついで発展させえない太宰研究者の怠慢の証でもあり、その点では自省すべきであろう。

もう一つの戯曲「春の枯葉」(昭21)に関する論は、ほとんど無きに等しい。東郷克美氏と共に太宰研究における「作品論の時代」を築きあげた渡部芳紀氏の旧稿(『太宰治 心の王者』洋々社、一九八四年)もあるにはあるが、力が抜けていて歯切れが悪すぎる。新しいところでは小森陽一「『春の枯葉』論」(『国文学』一九九一・四)があるものの、例によってテクストそっちのけで自分の思いつきに耽るオナニズムに夢中で意味不明瞭な放言が続き、作品研究に役立つものではない。そもそも「春の枯葉」は、テクスト分析が中毒症状を起こすほど多数の論が発表されていないのであるから、思いきった作品離れの地平から見直すべき要求が出る段階とは程遠いはずなのだが。

自分には「超自我=われら=われ、といふ公式」を受容するための「先天的な適性」が欠けている、三島由紀夫はそういう孤絶した地平から戦後民主主義(者)に通底する「われらの文学」(一人称複数形)の居心地の悪さを拒絶したわけである(1)。小森論の「単数から複数へ」という《敗戦後の日本の現実における、最もいかがわしい言説の制度》という着想は、それだけ見れば未だに興味深い問題ではある。しかし残念ながら肝心の戦後八ヶ月当時の「複数形」による「いかがわしい言説」の状況そのものを提示しえていない(無理な注文ではあろうが)こともあり、作品へ接続していかないので小森論自体が「いかがわしい言説」に堕している。のみならずテクスト中の「荒城の月」の歌詞から小森氏が読みとったと思われる戦前の「複数形の原理」と、戦後のそれとが差異化されぬまま短絡されてもいるので論旨が混濁している。テクスト無視も論理の軽視も、研究としては最悪の症例であるのは言うまでもない。

 

一人称複数形という切り口で想起される優れた研究は、「我々」という一語に着目しつつ、志賀直哉「網走まで」の若者が増殖させていく想像(錯覚)の世界を鮮烈に分析してみせた小林幸夫氏の手際であり、範とすべき論考である(『認知への想像力・志賀直哉論』双文社出版、二〇〇四年)。小森論的症状の方々に、次の高田知波氏の著書と共にこの「網走まで」論の一読をお勧めしておく。

 作品離れ的斬新さでいつも感心させられるのは『国文學』の特集号で小森論に続いて「斜陽」を担当している高田知波氏の作品論である。その達成である『〈名作〉の壁を超えて』(翰林書房、二〇〇四年)には「斜陽」を含めた太宰作品論三本も収録されているが、「少女と娼婦――あるいは〝切り裂きジャック事件〟と『たけくらべ』」(初出題)や「『名刺』の女/『表札』の男」という「三四郎」論には、論文名にも明示されているように驚くべき自在な発想と、それを説得的に展開する着実な論理の鮮やかさを見ることができる。先行研究が読み落としてきた些末とも思えるテクストの細部に注目し、それが実は作品の核心となるものの表象であることを明かしていく妙技が、テクストの一語一語を軽視することなく綿密に読み込む作業の成果であることを忘れてはなるまい。

 作品離れは往ったままでは文学研究としての意義は無い、還ってくるためにはテクストに対する真摯な姿勢と読みの精度が問われるのである。ともあれテクストが読めないことを糊塗するために、作品離れが逃げ口上的に使われる風潮は強く否定されなければならない。

 

     奥田は「エゴイスト」か?

 

 「春の枯葉」自体を対象としたものではないが、原仁司「太宰治と近代劇」(安藤宏編『日本文学研究論文集成 太宰治』若草書房、一九九八年)は表題に即した予備的学習を怠らない、あるべき姿勢の論考である。惜しむらくは、戯曲と小説との差に自覚的でない小森論文に振り回されたためか、先入見でテクスト理解が後づけされている手付きが残り、作品論として見ると説得的ではない。殊に奥田義雄という人物については、他のすべての論と同様この原氏の論も読み誤っている、と敢えて挑発しながら「春の枯葉」の重要な論点を整理して向後の論議を期待したい。

 原氏が伊藤整、チェホフ、ヴェデキントに依りながら《「春の枯葉」の登場人物たちは、夫々「会話」をすることはあっても「対話」をすることは、まずほとんどないといってよい。互いの言葉は対立点をうしない、すれちがったまま再び自らのモノローグに回帰してゆく。》と指摘するのは大筋でうなづけるものである。しかし次のような理解には賛同しがたい。

 

奥田は節子の深刻な哀訴にまるで応対しようとしていない。ならば無視、あるいは聞き流しているのかといえば、それも少し違う。どうも二人の「会話」は、最初から「対話」としての交信性を前提していないことがその特徴となっているようなのである。

 

つまり太宰の創造した登場人物、奥田義雄と菊代の二人(兄妹)は、人間対人間、個対個の直接的関係や劇的葛藤・対立を、放棄ないしは失調してしまった新時代の「人間」像なのである。実際、この戯曲の中で彼ら同士が「対話」(「会話」?)する場面が一度もないことに暗示されるように、二人は劇内他者との全人格的な交信を全く希求していないことがわかる。

 

 後の引用から言挙げすれば、この奥田兄妹は果たして原氏のいうような意味で〈新時代の「人間」像〉としてくくれるのであろうか? いったい兄妹の会話場面の無いことが、二人が共に「劇内他者」との交信を希求していないことの根拠だなどとは珍奇すぎないか? 奥田は自己を「エゴイスト」と規定してみせるが、それが即、原氏が続けていうところの《他者との接触を拒否する自閉的人間》ということになるのであろうか?

 

     「交信」する奥田

 

 奥田義雄という自称「エゴイスト」は他の登場人物と同列に捉えるのではなく、彼らとは一線を画した含みのある人間として読まれるべきものだと思われる。奥田は野中と妻の節子、並びにその母・しづの野中家の三人という〈他者〉を拒否することなく、それぞれ相手に応じて対処する開かれた人間であり、「自閉的人間」とは正反対の生き方を見せている。したがって教員としても十分に機能しているはずで、野中が怖れる教員の人員整理に際してもクビになることもなかろう。さりとて奥田が「他者との全人格的な交信」を希求している、とも言いがたい。奥田と野中家の三人それぞれとのやりとりの、終わり方に注目してみよう(引用文中に「ト書き」とあるのはト書きの言葉を略したもので傍点は引用者、以下同)。

 

奥田 だから、それが、(笑ひ出して)いや、きりがないですね、こんな事を言ひ合つてゐても。(ト書き)これからも一生、野中家だ、山本家だ、と互ひに意地を張りとほして、さうして、どういふ事になるのかな? 僕には、わからん。わからん。

しづ (興覚めた様子で)あなたも、いまにお嫁さんをおもらひになつたら、おわかりでせう。(ト書き)おお、寒い。雪が消えても、やつぱり夕方になると、冷えますね。(ト書き)お邪魔しました。

ト書き

奥田 (縁側に立つて、それを見送り)おしんこか何かとどけてくれると言つたが、あの工合ひぢやあてにならん。(ひとりで笑つて)さあ、めしにしようか。                (第二場)

 

奥田 (ト書き)いや、僕のはまだここに一ぱいあります。(苦笑しながら、申しわけみたいにちよつと自分の茶碗に口をつけ、すぐまたそれを卓の上に置き)どうも、これは。

野中 いのちが惜しいか。(笑ふ)                         (同前)

 

奥田 試験台にはなりませんか。(笑ふ)どれ、僕が背負つて行つてやらうかな?

節子 (それをさへぎつて、鋭く)いいえ。わたくしが致します。もう、お手数はかけません。

奥田 他人は他人、旦那は旦那ですか。(いや味なく笑ふ)そのはうがいいんです。それぢや僕はちよつと、あの(ト書き)チンピラの音楽団のはうへ行つて、妹をつかまへて、事の真相を問ひただしてみませう。つまらない悪戯をしやがつて。(言ひながら気軽に上手より退場)         (第三場)

 

 右の各場面に限らず奥田は「笑」を浮かべている人間として登場しているが、冷笑とは考えにくいので決して「他者との交信」を拒否しているわけではない。三人に対する奥田の態度には、むしろ原氏の言葉を借りれば《他者の存在を公平に許容し尊重する》しなやかさをこそ読むべきであろう(しづが言うように、奥田が結婚したらこのしなやかさは失われる可能性はあるが)。酔っている野中は相手にならぬのでその場での「交信」は諦めてはいるが、しづに対しては「過ぎ去つた事よりも、現在が大事ぢやありませんか。」(引用の直前の台詞)なども含めて言うべきことは明言している。ただそれがしづには伝わらないことを自覚してもいるので、自ら話題を切り上げるのである。

 節子と奥田の会話にしても、奥田は常に「笑」を浮かべて〈他者〉を許容していることを見逃してはならない。その奥田の態度にほぐされたのか、節子の夫に対する姿勢が大きく変わっていく。野中と節子の間も《最初から「対話」としての交信性を前提していない》わけではない。直後の節子の「さ、一緒に帰りませうね。」「すみませんでしたわね。わたくしが悪かつたのよ。」などのつぶやきに注目すべきである。母のしづと同様かたくなに野中という家にこだわっていた節子が、奥田の助力を断って野中と「一緒」にいることを選びつつ「悪かつた」と言う以上、何らかの変貌を想定せざるをえまい。相手が酔っている野中だから高揚した勢いでその場限りの言葉を言ったまでだ、とするには変化が大きすぎる。まさに〈劇〉的な変貌なのであり、続いて「野中の死体に武者振りついて泣」きながら「わたくしは、心をいれかへたのよ。」と語りかけるのも、「交信」を前提としていない「モノローグ」では決してない。仮に野中が生き残ったとしても、この場の節子の言葉には偽りはない。「春の枯葉」は徹頭徹尾「モノローグ」に終始した〈劇〉の無い作品なのではない。節子の心が開かれようとしながらも、それが野中に伝わらぬまま幕が下りるからこそ、その絶望の深さが増すのである。

 実のところ節子は、結婚当初は「全人格的な交信」を希求していたとも考えられる。それが野中対山本という「家」の対抗意識に阻まれて果たせないまま、一方の野中が「意地」を張るのと相乗効果をなして膠着せざるをえなかったのであろう。節子の自己閉塞を揺るがしたのは、前述のとおり「気軽」な奥田のしなやかさである。先入観に囚われずに奥田の台詞を読むことができれば、囚われることのない奥田の自在さが理解できるはずである。

 

     「善悪の彼岸

 

奥田 おくさん。善悪の彼岸といふ言葉がありますね。善と悪との向う岸です。倫理には、正しい事と正しくない事と、それからもう一つ何かあるんぢやないでせうかね。おくさんのやうに、ただもう、物事を正、不正と二つにわけようとしても、わけ切れるものではないんぢやないですか?

節子 よくわかりませんけれど、それでは、わたくしが何か間違ひを起しても?

奥田 (笑つて)それあいけません。どだい、不自然ですよ。それこそ、おくさんの空想の領域です。おくさんは、野中先生をずゐぶん大事にしていらつしやる。それがまた、おくさんの生き甲斐なのでせう? ばかばかしい空想はやめませう。おくさん、今夜は、どうかしてゐますね。現実の問題にかへりませう。(語調をあらためて)僕たちは、お宅から引越します。問題は、それだけです。僕は学校の宿直室へ行きますし、妹は、あれは、東京へまた帰つたはうがいいだらうと思ひます。                                (第三場)

 

奥田 人類がだめになつたんですよ。張り合ひが無くなつたんですよ。大理想も大思潮も、タカが知れてる。そんな時代になつたんですよ。僕は、いまでは、エゴイストです。いつのまにやら、さうなつて来ました。菊代の事は、菊代自身が処理するでせう。僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずつと大人かも知れません。自己に就いての空想は、少しも持つてゐません。

節子 (しづかに)それは、どんな意味ですの?

奥田 妹は妹、僕は僕、といふ事です。いや、人は人、僕は僕、と言つてもいいかも知れない。おくさん、あんまり他人の事は気にしないはうがいいですよ。            (同前)

 

 「大理想も大思潮」も信じられなくなった時代を「だめになつた」とする奥田は、フランス革命史を読む人間でもあり、野中に揶揄されている(第二場)。当年二十八歳の奥田が言う「大思潮」が、昭和初年代の青年を捉えた革命思想を意味していた可能性は高い。時代的には運動としては退潮期であるが、革命という「大理想」に情熱を傾けていた十代の奥田から見れば、現在の自身は「いまでは、エゴイストです」というほかないのであろう。革命運動に邁進する自身の姿を思い描くような「空想」を、もはや奥田は持ちえない。そういう自己の在りようを自虐的に「エゴイスト」と呼んでいるのであって、この呼称に込められた奥田の断念は重い。「人は人、僕は僕」という考えを確信込めて公言するに至るまで、奥田が通過してきた葛藤・懊悩は語り尽くしがたいものであろう。今の奥田はフランス革命史を読んでも、「他人の事は気にしない」でいられるので他者にも現実世界にも働きかけることはない。自分の考えを明言することはあっても、他者も世界も変えようがないことをわきまえているため、しづや節子に対して自分の正論を押しつけないのである。

 

     「空想」する菊代

 

 あえて正論と言うのは、他の登場人物がそろって己れを「正」とし、相手の「不正」を糾弾しながら「交信」を拒絶して自閉する結果に陥っているのと対照的だからである。「正・不正」の二元論とは別の「もう一つの何か」を視野に入れることができるのが奥田のしなやかさなのであり、だからこそ「現実の問題」に冷静に対処することができ、解決策を提起しうるのである。「正・不正」を超えるものを想定しうるのは、おそらく奥田が若き日にこの二元論で他者や世界(母の不倫や革命思想)を腑分けしようとした結果、精神的な傷を負ったためであろう。「母は母、自分は自分」というように、母や現実世界を「自己に就いての空想」から切り離しえているからこそ、他の登場人物が囚われている「現実の問題」からの出口を見出すことができるのである。

 解決策は奥田兄妹が引っ越すこと、奥田の言うとおり「問題はそれだけ」なのである。付随して菊代は東京へ帰った方が菊代自身のためにもなる、というのも全くの正論である。野中家という「正しい事」に膠着しきっていた節子の態度が軟化していくように見えるのも、奥田の示した引っ越しという「善意の彼岸」に救いを見るからである。

 菊代がわけの分からない行動をするのは、「全人格的な交信」に飢えている現れとして理解することができよう。「新時代」を迎えて何かをせずにはいられないのだが、何をしていいのか分からずにあがいているのが菊代である。そういう意味で菊代は「自己に就いての空想」を生きようとしているのであり、それを未だ果たせずにいるわけである。菊代が「空想」を生きるには津軽は狭すぎる、他人の目を気にせずにいられる東京こそがふさわしいという判断が奥田にはあると思われる。幼い頃から不遇な生を強いられている妹に対する同情のみならず、まだ自分を生ききっていない者に対する暖かい眼差しが奥田にはある。だから子供達を利用してまで「つまらない悪戯」をする菊代を、強圧的に抑えようとはしないのである。菊代を捕まえに行く時の奥田が「気軽に」退場していることを、さきの引用文で確認してもらいたい。菊代が野中に金を与えてそそのかしたことを節子から知らされても、「いかにも、あいつのやりさうないたづらだ。」と「笑ひ」を浮かべるのである。むろん菊代の側では、強圧的でないにしろ何でも黙認・放任してくれるわけもない兄を煙たがっているはずであり、したがって家に寄り付こうともせずに、意のままにしやすい子供達と一緒にいたがるのである。

 

     迷走する男女

 

節子 まだあります。野中にたきつけて、わたくしとあなたと、……。

奥田 (まじめになり)しかし、おくさん。妹はばかな奴ですが、そんな、くだらない事は言はない筈です。

節子 でも、野中はさつき、わたくしを疑つてゐるやうな、いやな事を言ひました。

奥田 それぢやあ、それは野中先生ひとりの空想です。野中先生は少しロマンチストですからね。いつか僕と議論した事がありました。野中先生のおつしやるには、この世の中にいかにおびただしく裏切りが行はれてゐるか、おそらくは想像を絶するものだ、いかに近い肉親でも友人でも、かげでは必ず裏切つて悪口や何かを言つてゐるものだ、人間がもし自分の周囲に絶えず行はれてゐる自分に対する裏切りの実相を一つ残らず全部知つたならば、その人間は発狂するだらう、といふ事でした。しかし僕はそれに反対して、人間は現実よりも、その現実にからまる空想のために悩まされてゐるものだ。空想は限りなくひろがるけれども、しかし、現実は案外たやすく処理できる小さい問題に過ぎないのだ。この世の中は、決して美しいところではないけれども、しかし、そんな無限に醜悪なところではない。おそろしいのは、空想の世界だ、とまあ言つたのですが、どうも、野中先生の空想には困ります。

節子 (変つた声で)でも、それが本当だつたら?

奥田 (どぎまぎして)え? 何がですか?

節子 野中のその空想が。

奥田 おくさん! (怒つたやうに)何をおつしやるのです。              (第三場)

 

先行論では素通りされてきた男と女の問題である。野中と菊代との関係も含めて、確かに見えにくい問題であり、この不明瞭さは何よりも登場人物が自身の気持を捕捉しえていないことに由来する。例えば既に引用した第二場の奥田としづのやりとりの後、奥田が食事の支度をしている障子の影法師の後ろに、女の影が映るというミステリー・タッチの場面である。第三場になってそれが「奥田先生がおひとりで晩ごはんのお仕度をしていらつしやるといふ事を母から聞いて、何かお手伝ひでもしようかと思つてお部屋をのぞいてみました。」と節子の口から説明される。必ずしも節子の言うとおりとも限らないのは、「その女の影法師は、じつと立つたまま動かぬ」とあるように、いざ奥田の所に来たところで、節子はすぐに食事の仕度を手伝うでもなく立ち止まっているだけだからである。奥田に対する気持を節子自身が捉えかねているからであり、奥田本人に向かって「でも、それが本当だつたら?」と問いかけてしまうのも、自分の気持を確定しえた上での問いではない。

 

菊代 ええ、でも、同じうちにゐても、なかなか二人きりで話す機会は無いものだわ。あら、ごめん。誘惑するんぢやないわよ。

野中 かまひませんよ。いや、よさう。兄さんに怒られる。あなたの兄さんは、まじめぢやからなう。

菊代 あなたの奥さんだつて、まじめぢやからなう。                 (第一場)

 

「二人、笑ふ」というト書きが続くが、実は何も無さそうな二人の関係ではある。しかし「美人だつて? 笑はせやがる。東京の三流の下宿屋の薄暗い帳場に、あんなヘチマの粕漬みたいな振はない顔をしたおかみさんがゐますよ。」(同前)と、当の夫の眼前で菊代が悪口言いたい放題の気の許し方を表しているのは、二人の共犯が前提となっているようにも見える。また第三場の「菊代さんを、あなたは、どうなさるおつもりです。」という節子が野中に言う言葉も引き寄せて考えれば、ふたりの間に男女の交情があるものと見えなくもない。野中も自分達の関係に何らかのやましさを感じつつ、奥田を意識に上らせるわけである。

菊代の罵詈雑言は節子への嫉妬に由来するとも見え、野中が節子に「知つてるよ。お前のあこがれのひとは、誰だか。」(第三場)と邪推するのは、明らかに嫉妬であろう。なぜこのような感情の迷走が起るかといえば、狭い敷地内に男女が二人ずつ同居しているからというほかない。それも津軽の「海岸の僻村」という生活圏の狭さであり(狭さは濃密な意識の空間を生じさせる)、その世間の狭さに由来する性の抑圧が、心中に飢えを抱えた男女に「空想の世界」を創出させてしまうのであろう。ここでも奥田は他の三人とは異なり、「空想」に振り回されていない。

 

     ハムレット人間

 

 野中は第一場で登場早々に「教へたあとで何だか、たまらなく不安で、淋しくなるのだ。僕には何もわかつてゐないんぢやないか」と苦しみを語り、その後もテクスト全体を通して〈煩悶する男〉という役どころである。名目は野中家の主人でありながら、実質は主人ではない(養子)というアイデンティティの不安定さが野中の言う「不安」の出所だという側面もあろうが、「自己に就いての空想」に憑かれているという点では田舎のハムレットと呼べよう。自虐的な自己劇化・自己陶酔に耽りがちで、むやみと「死」や「裏切り」を口にしたがるところはまさにハムレットの名にふさわしい(2)。奥田に言わせれば「案外たやすく処理できる」はずの「現実」に直面することを避けている、文字どおりの「センチメンタル」な「ロマンチスト」と言うほかない。自閉しながら己れが置かれた「現実」を「醜悪なもの」として誇大視し、「空想の世界」で自己陶酔しているにすぎないからである。奥田に「命が惜しいか」と強がりを言ってみたり、節子に向かって「死ぬんだ。死にやあいいんだらう? どうせ僕は、野中家の面よごしなんだから、死んで申しわけを致しますですよ。」とハムレットばりの駄々をこねるのも、しづと節子によって増幅された被害者意識で自己陶酔しているからである。

 妻である自分を「悪魔」呼ばわりする野中を、節子が「あなたは、はづかしがつてゐません。」というのも、野中の自己劇化を直感的に見抜いているようでもある。菊代との仲を疑われると野中が「聖書にこれあり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。」と応じるのも、話をそらすつもりはなく、「僕はいま罪人なんだ。」と言うのと同様に大仰ながら、野中なりの自己劇化的心理から発している台詞なのである。野中の死はおそらくは事故であろうが「死にやあいいんだらう?」とふてくされている自暴自棄な気持にも噓はなく、「現実」と「空想」の境界――生死のあわいで自己陶酔しているうちに、誤って一線を越えてしまったというのが実情であろう。作家は「聖書」の気に入ったフレーズを引用させながら、野中に自己仮託した悲劇を書いたつもりかもしれないものの、野中を中心化して読めばテクストは喜劇的色彩を帯びてくる。むろん悲劇は裏返せば喜劇となる、という一般論を出ていない範囲ではある。チェホフが「桜の園」は喜劇だと呼んだというエピソードは有名だが、時代の変化に即応できないラネーフスカヤを野中に重ねれば、チェホフの遺したパラドックス理解の一助ともなろうが、話がふくれすぎよう。

 

     いつも二人

 

 目の前にしながらも気づきにくいところがある、「春の枯葉」にはそういった特色がある。「対話」が成立しているか否かはしばらくおくとしても、この戯曲のほとんどの場面が二人だけの会話に終始し、三人以上のからみが見られないという点は見過ごされやすい。

 

  第一場 野中と学童  第二場 奥田としづ  第三場 節子と野中

      野中と菊代      奥田と野中      節子と奥田

 

 第二場の奥田と野中との会話の場面では、野中と節子のやりとりが一時はさまるが、これに奥田がからまることはない。そこに同座しながらも夫婦喧嘩に口をはさまないのも、前述した奥田らしいスタンスの取り方と言うべきであろう。第一場から第三場まで、それぞれ野中・奥田・節子が会話の軸となり、常に二人だけの台詞が交わされる。これが必ずしも太宰戯曲の特徴と言いきれないのは、「冬の花火」では二つの場面が三人の会話で成り立っているからである。第一場の幕切れがあさ・数枝・伝兵衛のからみであり、第二場の幕切れ直前では清蔵・数枝・あさの三人が張りつめた場面を作り上げるが、第一幕ではなだめ役だったあさが一転して、二幕では出刃包丁で清蔵を刺そうとして緊張感を生んでいる。唐突なあさの変貌ぶりに隠された「秘密」が終幕で明かされる、という劇的転回が用意されているわけである。

 「冬の花火」も他の場面はすべて二人の会話に終始しているものの、「春の枯葉」は徹底して二人に限られている。三つの場の会話の軸となる人物は前述のとおりながら、さらにいえばこの三人は会話だけに止まらず、各場の大局的な意味を提示しながら劇を方向付けていると見ることもできよう。第一場の野中が自己閉鎖的な世界を表し、第二場の奥田が閉塞した世界に動揺を与えて行き、第三場に至って節子が自己閉塞からようやく抜け出そうとする可能性を示しながらも、野中の死によって唐突に閉じられるという運びである。

 それにしても二人だけの会話の場面が圧倒的に多いというのは、どう解したらいいのであろうか? 戯曲制作に際して、太宰がもっとも参考にしたと言うチェホフにも、著名作品には二人の会話が中心というものは見当たらない。理由を求めるとすれば、太宰の内側に向かわねばなるまい。急ぎ足で思い付きを述べるに止まらざるをえないが、太宰の作品世界は(精神世界も、と飛躍してもよさそうだが)基本的には二元論的な構造を抜けきれなかったのではあるまいか。野中のような自画像的な人物と、それと対極の存在との葛藤が太宰作品に共通した特徴だと予断しておきたい。例えば「ダス・ゲマイネ」など、分身的存在ばかりの同質性の世界を創出することも多いものの、その場合でも人物達の対極には俗物性(ダス・ゲマイネ)が位置付けられている。太宰の作品には自身をモデルにした私小説的傾向があることはくり返すまでもなかろうが、自画像的人物の対極に位置するのは家(長兄)であり俗世間であり、それらから派生するものである。

 田舎の人間に対する菊代の憎悪は、津軽疎開していた頃の作家自身のものであろうが、太宰が奥田のように「もう一つの何か」を希求する志向性も無いわけではない。

 

その夜から私たちは仲良くなつた。お医者は、文学よりも哲学を好んだ。私もそのはうを語るのが、気が楽で、話がはづんだ。お医者の世界観は、原始二元論ともいふべきもので、世の中の有様をすべて善玉悪玉の合戦と見て、なかなか歯切れがよかつた。私は愛といふ単一神を信じたく内心つとめてゐたのであるが、それでもお医者の善玉悪玉の説を聞くと、うつたうしい胸のうちが、一味爽涼を覚えるのだ。たとへば、宵の私の訪問をもてなすのに、ただちに奥さんにビイルを命ずるお医者自身は善玉であり、今宵はビイルでなくブリツヂ(トランプ遊戯の一種)いたしませう、と笑ひながら提議する奥さんこそは悪玉である、といふお医者の例証には、私も素直に賛成した。  (「満願」昭13)

 

 「お医者」に共感しがちなのは「私」の、ひいては太宰という人間の心性ではあろうが、「原始二元論」から生み出される葛藤から脱け出したいというのも、この頃からの太宰の切実な気持だったはずである。テクスト冒頭に、これは《ロマネスクといふ小説を書いてゐたころの話》とあるから、作家論として言えばいわゆる中期の序曲たる「満願」には、芸術の使徒として俗人相手に戦い抜いた前期の二元論的懊悩からの救済として、「愛といふ単一神」が希求されているのである。ちなみに「ロマネスク」は私読によれば〈父と子〉の対立・葛藤の物語であり、三人の「子」たちが「父」の代弁する現実世界の論理・価値観に反抗を企てて敗れる話である(『シドク―漱石から太宰まで』洋々社、一九九六年)。

 

八月のをはり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでゐると、私の傍に横坐りに坐つてゐた奥さんが、

  「ああ、うれしさうね。」と小声でそつと囁いた。

   ふと顔をあげると、すぐ目のまへの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さつさつと飛ぶやうにして歩いていつた。白いパラソルをくるくるつとまはした。

 

この「白いパラソル」が表象している無垢・純粋さがすなわち先の「愛といふ単一神」だとするのは短絡ではあろうが、「右大臣実朝」(昭18)の実朝や『御伽草紙』(昭20)収録の「浦島さん」における乙姫、戦後作品では「斜陽」(昭22)の母などが太宰の「白いパラソル」の形象化と解してもよかろう。「満願」は《あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。》という意味を限定しにくい一文で閉じられる。「あれ」が「白いパラソル」を指すとすれば、「私」ができすぎた話に疑念を抱き、現実世界の苦しみはそう簡単に「解決」されえないという苦い認識を込めた言葉にも見えてくる(作家を持ち出せば、できすぎた美談を語る太宰のテレとも読めるのだが)。だとすれば《くるしい時には、かならず実朝を思ひ出す様子であつた。》(「鉄面皮」昭和18)という言葉を想起するまでもなく、実朝や「斜陽」の母は現実の彼岸にしか求めえない夢想として、断念されつつ結ばれた像だったことになる。確かに両者共に、現実世界に永らえきれていない。

奥田の示す「善悪の彼岸」に想定される「もう一つ何か」が、一時期太宰が口にした「かるみ」につながるのか否かは別の機会に譲るとして、「春の枯葉」に戻って言えば「もう一つ何か」は具体的には何も提示されないままで幕が下ろされる。「だめになつた」「人類」を救済する手だてなどむろん奥田には無い。が、最小限のこととして奥田は野中夫妻を救いえたかもしれぬものの、それも野中の死によって挫折した形で終わっている。「冬の花火」同様に何とも閉塞した作品ではある。我々読者にとっては、太宰が野中の造型に止まらず、しなやかな生き方を説く奥田をも創造しえていることに僅かながらも救いを見出せるということであろうか。太宰自身は事故でなく、死に急いでしまったにしろ。

 

 

(1) 今更すまして「われらの文学」などに顔を連ねてゐることは、恥づべき振舞である。(一文略)時の経過といふものは怖ろしい。私には何となく、現在の「われら」はいやらしいが、過去の「われら」は美しかつたといふ気がしはじめてゐる。     (三島由紀夫「『われら』からの遁走」昭41)

(2) ハムレットの有名な「生か死か、それが問題だ。」というモノローグには、小田島雄志氏の「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。」という訳し方(テクストの読み方)もあるが、ここでは「生か死か」のイメージで言っている。ただし「新ハムレット」というパロディも残した太宰が、野中をハムレットに仕立てたとまで言う気はない。野中は奥田から「ロマンチスト」と規定され、菊代からは「案外、センチメンタルね、先生は。」(第一場)と皮肉られている。「僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずつと大人かも知れません。」という言葉のとおり、野中に比べると奥田兄妹は確かに「大人」(リアリスト)といえよう。