【『太宰・安吾に檀・三島』より】太宰治「如是我聞」論

 もう1つ太宰論。三島由紀夫が一貫して太宰の惰弱さぶりを唾棄していたけれど、論の末尾で太宰的在り方自体が三島由紀夫を根底から批判しているという理解は、複数の研究者から共感していただいたのは、「望外の喜び」だった。

 

 

      『如是我聞』――開かれてあることの〈恍惚と不安〉

 

 

     志賀直哉との確執

 

志賀直哉と関連づけて太宰治を論じようとするなら、鶴谷憲三『太宰治 充溢と欠如』(有精堂、一九九五年)の到達点から始めればよい。殊に巻頭論文の「太宰治における志賀直哉の位置」は先行研究の誤解や偏りを正しながら、志賀に対する太宰の「位置」の取り方が納得できる形で詳述されている。これに補足を試みながら、志賀対太宰を「充溢と欠如」の対照とする鶴谷氏の把握を、「如是我聞」(昭23)を素材にしつついかにズラせるかが本論の課題である。

補足と記したのは、鶴谷氏はあくまでも《志賀の名が実名、または明らかに志賀と推定される形で太宰の作品に出てくる》もののみを論じているので、その抽出の仕方からは漏れる例を上げながら、太宰は《志賀を強烈に意識して自己の文学を立て直そうとした》(鶴谷)という推定を補強しておきたいと考えたからである。鶴谷氏が上げている例は昭和十年の「もの思ふ葦」からであるが、昭和八年に同人誌『海豹』に連載された「思ひ出」にも既に志賀直哉の刻印が読み取れる(習作は未詳)、というのが以前から暖めていた私見である。

「思ひ出」が収録されている『晩年』がコラージュの「葉」から始まり、「道化の華」等のメタフィクションまで、新技法を駆使した方法実験であることはくり返すまでもあるまい。そこで試行されている方法は二十世紀の斬新なものばかりではなくパロディや民話、そして「地球図」という(芥川風の?)歴史小説の形式までも採用されているのであり、その中で「思ひ出」は「列車」同様あえて旧態の私小説の手法が試みられていると言えよう。ちなみに『晩年』収録作品中、最初に発表されたのが「列車」であり、民話風の「魚服記」を挟んで「思ひ出」という順である。この三作が発表された昭和八年は、私小説の復活とともに私小説的な転向小説が目立ち始める頃であり、そういう機運の中で太宰文学の近縁者である高見順(転向・饒舌体・コキュが太宰と共通する)(1)がプロレタリア小説から反転一新した「感傷」を発表し、自らの文学の端緒をつかんだ年でもある。大局的にはそのような流れの中で、「思ひ出」は「暗夜行路」(大10~昭13)等を意識しながらつづられたものと考えられる。

 

  志賀直哉への〈同一化〉

 

それから旧藩主が死んだ時に、おかくれになつたといふのを「隠れん坊」と解(と)つて、棺の後ろへ立て回した金屏風の裏を頻に探し回つた事、(略)只一つ、未だ茗荷谷に居た頃に、母と一緒に寝て居て、母のよく寝入つたのを幸ひ、床の中に深くもぐつて行つたといふ記憶があつた。間もなく彼は眠つて居ると思つた母から烈しく手をつねられた。そして、邪慳に枕まで引き上げられた、然し母はそれなり全く眠つた人のやうに眼も開(あ)かず、口もきかなかつた。彼は自分のした事を恥ぢ、自分の仕た事の意味が大人と変らずに解つた。この憶ひ出は、彼に不思議な気をさした。恥づべき記憶でもあつたが、不思議な気のする記憶だつた。              (「暗夜行路」第二篇・三)

 

黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにゐる。叔母は、てんしさまがお隠れになつたのだ、と私に教へて、生き神様、と言ひ添へた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな気がする。それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。叔母は、そんなことを言ふものでない、お隠れになつたと言へ、と私をたしなめた。どこへお隠れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。               (「思ひ出」一章)

 

母に対しても私は親しめなかつた。乳母の乳で育つて叔母の懐で大きくなつた私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかつたのである。下男がふたりかかつて私にそれを教へたのだが、ある夜、傍に寝てゐた母が私の蒲団の動くのを不審がつて、なにをしてゐるのか、と私に尋ねた。私はひどく当惑して、腰が痛いからあんまやつてゐるのだ、と返事した。母は、そんなら揉んだらいい、たたいて許りゐたつて、と眠さうに言つた。私は黙つてしばらく腰を撫でさすつた。母への追憶はわびしいものが多い。                                    (同)

 

 最後の引用は幼い「私」が無断で兄の洋服を着ていると《母は、どうした訳か、その洋服をはぎ取つて了つて私の尻をぴしやぴしやとぶつたのである。私は身を切られるやうな恥辱を感じた。》という場面に続いている。「お隠れ」に関しては〈わざと〉笑わせる太宰的主人公の特徴として差異化されてはいるものの、類似した逸話の好例ではある。就寝中における性的衝動の発現を母に気付かれたり、母から暴力的制裁を受けたりした記憶(「暗夜行路」では「序詞(主人公の追憶)」でも語られている)の共通性は、両作の主人公が実母ではないもの(志賀作品では祖父の妾であり、太宰作品では叔母)との間に擬制的な母子関係を生きるという設定そのものの類同性とも無縁ではあるまい。むろん謙作の側には《其母も実は彼にさう優しい母ではなかつたが、(略)本統の愛情は何と云つても母より他では経験しなかつた。実際母が今でも猶生きて居たら、それ程彼にとつて有難い母であるかどうか分らなかつた。然しそれが今は亡き人であるだけに彼には益々偶像化されて行くのであつた。》(第一篇・五)という事情はあるものの、実母であることが確信されている「充溢」した安堵感がある。

 一方「思ひ出」は叔母で始まり叔母で終るように「私」は徹底して実母から隔てられている。母が常に否定的なニュアンスで語られるだけでなく、母代りの位置を占める叔母も冒頭近くでは「私」を置き去りにする姿で夢に現れている。「私」における〈母〉の「欠如」であり、根源的な平安からの隔絶感が「思ひ出」(あるいは全ての太宰作品)の底に流れている。〈母〉の欠落は、太宰の主人公達が根本的なアイデンティティの動揺や欠落感を共有していることとも直結している。「人間失格」とはこの根源的なアイデンティティの欠損を言ったものであり、自己が不安定に揺らぎ続けているかぎり〈他者〉を理解することは覚束なく、したがって大庭葉蔵は《人間を極度に恐れ》なければならないのである。こうした人間失格者が、確固としたアイデンティティを保持し続ける者(志賀直哉)に対して非難がましいことを言い得たとすれば、それはいったい何なのか。自分を捨てた男に対する女のヒステリックな罵詈雑言並みの理解に止めぬために、我々は「如是我聞」に何を読めばいいのか?

 「人間失格」の著名なアント(反意語)遊びで言えば、太宰治のアントニムは志賀直哉であり、両者をシノニム(同意語)扱いにする神西清「ロマネスクへの脱出」の把握は全くの的はずれというほかない。芥川龍之介を自らのシノニムとして思い入れを強くしていた太宰は、志賀を《何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる》(「文芸的な、余りに文芸的な」昭2)と捉える負の感覚を芥川と共有しながら志賀を意識し始めた、と推察できよう。芥川が志賀の心境小説に対して及びがたい距離を自覚しつつも、芥川なりの心境小説「蜃気楼」を書いたように(三好行雄芥川龍之介論』筑摩書房、一九七六年)太宰は「暗夜行路」や「大津順吉」(千代という女中の名は、「思ひ出」のみよに類似している)を意識しながら「思ひ出」を書いたものと思われる。戦後になって志賀と行き違うまでの太宰は、むしろ志賀直哉に〈同一化〉する指向性を抱き続けていたと言えよう。(2)「如是我聞」のモチーフは、やはり敬愛する作家から自作に対する否定的な言辞をくり返されたことが、志賀への罵倒に反転していったものと考えるべきであろう。

     

     「愛する能力」

 

 さて問題の「如是我聞」である。《他人を攻撃したつて、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。》が周知の冒頭文であるが、この「神」は次のように説かれている。

 

家庭である。

家庭のエゴイズムである。

それが終局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思つてゐる。ゲスな云ひ方をするけれども、妻子が可愛いだけぢやねえか。                       (一)

 

全部、種明しをして書いてゐるつもりであるが、私がこの如是我聞といふ世間的に言つて、明らかに愚挙らしい事を書いて発表してゐるのは、何も「個人」を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦ひなのである。

彼らは、キリストと言へば、すぐに軽蔑の笑ひに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、といふやうな、安堵に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスといふ人の、「己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」といふ難題一つにかかつてゐると言つてもいいのである。

一言で言はう、おまへたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如してゐる。おまへたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。

おまへたちの持つてゐる道徳は、すべておまへたち自身の、或いはおまへたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。                                  (三)

 

 「家庭のエゴイズム」を肯んじない太宰を、単なる〈帰宅できない蕩児〉として退けることは不毛である。《この雛壇のまゝでは、私たちには、自殺以外にないやうに実感として言へるやうに思ふ。》(一)とまで、「苦悩」を強調し、個人攻撃ではなく〈反キリスト的なものへの戦ひ〉として位置付けた太宰の真意、あるいは太宰自身が意識化しえなかったものを含めた「いのちがけ」の問題提起にこそ応えねばならない。〈反キリスト的なもの〉の内実を読むには、《わたしが来たのは、人を父から、娘を母から、嫁を姑から離すためである。人の敵はおのが家人である。父や母をわたし以上に愛するものはわたしにふさわない。》(「マタイ福音書」前田護郎訳)というイエスの言葉を想起すべきであろう。「家庭のエゴイズム」が諸悪の根源として否定されなければならないのは、「家庭」に閉じると「隣人」(他者)への眼差しを失うからである。「愛撫する」とは絶対化された自己が「隣人」を思いのままにすることであり、「愛する」とは自己を「隣人」と同じ地平まで相対化することである。「弱さ」とは「隣人」の不幸に耐えられないことであり、自身の「弱さ」に生きる者は「家庭のエゴイズム」に閉塞することはできない。親や兄弟から義絶されても、「隣人」を愛さずにはいられないのが太宰治であった。その太宰からすれば「暗夜行路」も《いつたい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ自己肯定のすさまじさだけである。》(四)と見えてくるのもやむをえない。〈自己肯定のすさまじさ〉とは「隣人」を拒絶する強さであり、〈弱さ〉を抱えた太宰が「灰色の月」(昭20)において《倚りかかつて来た少年工を肩で突返した》「私」に対し、《この少年工に対するシンパシーが少しも現はれてゐない。》(四)と抗議するのも当然であった。志賀直哉には生まれながらの「愛撫」する力はあっても、「愛する能力」が欠けていると太宰は見たわけである。

 

     「あの人は私のものだ」

 

ところで太宰の志賀攻撃は、自身が生来「愛する能力」を具えているという確信からなされたわけではない。例えば我々は太宰が造型したユダが、イエスに対する愛をくり返し口にしながらも、実は〈自己愛〉の亡者でしかないことを知っているからである。

 

私には、いつでも一人でこつそり考へてゐることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教へとやらを説かれることもお止しになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります。私の村には、まだ私の小さい家が残つて在ります。年老いた父も母も居ります。ずゐぶん広い桃畠もあります。春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。一生、安楽にお暮しできます。私がいつでもお傍について、御奉公申し上げたく思ひます。よい奥さまをおもらひなさいまし。(略)私はあの人を愛してゐる。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらゐなら、手渡すまへに、私はあの人を殺してあげる。   

(「駆け込み訴へ」)

 

《あの人は、誰のものでもない。私のものだ。》というユダの主張は、独占欲であっても愛ではない。ユダが愛していたのはあくまでもイエスに執着する己れ自身であり、イエスを「隣人」(他者)として愛しているわけではない。ユダが語ってみせる「桃の花」の咲く理想郷が、イエスと母マリヤ、それと(場合によってはイエスの妻と)彼らに奉仕するユダ自身が加わって一生安楽に生活するという、変則的ではあるが一つの「家庭」に紛れないことを見逃してはなるまい。イエスがユダに心を許せないのは、ユダが囚われているこの「エゴイズム」を見抜いているからである。《あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役に引き渡すよりは、私が、それを為さう。けふまで私の、あの人に捧げた一すぢなる愛情の、これが最後の挨拶だ。》と断言するユダは、ユダなりの〈自己肯定のすさまじさ〉に支えられているわけである。ユダのような太宰の身体的分身は、他にも「右大臣実朝」(昭18)(3)における公暁のような形で繰り返されているが、それら〈弱者〉は志賀直哉的強者のアントニムという見せかけながら〈自己肯定のすさまじさ〉を共有する点では同類項であった。

生活も文学も安定していたとされる中期に造型した、ユダや公暁の〈自己肯定のすさまじさ〉はもはや「如是我聞」の太宰のものではない。ということは「汝の隣人を愛せ」という課題に応える条件が用意されているということである。他人の不幸に耐えられぬ〈弱さ〉を引きずり続ける太宰は、捨て身で「隣人」を愛そうとする。〈弱さ〉とは酒びたりのために「家族の保全」を保障できないということではなく、「子供より親が大事」(「桜桃」昭23)と自分に言い聞かせなくては〈自己肯定〉できない、すなわち生きていられないことである。〈自己肯定のすさまじさ〉を持てぬ以上、「義のために」生き死にすることなど覚束ない。こうした人間が「隣人」を愛そうとすれば、やむなく「義のために遊ぶ」(「父」昭22))ほかない、ということになる。

     

     〈弱さ〉が撃つ三島由紀夫

 

 太宰の「家庭のエゴイズム」攻撃は、戦後の時代思潮に対する批判を超えた、はるかの地平を見すえているように読める。例えばさかのぼって、天皇制国家にくり込まれていた戦前の〈家〉の在り方を撃つものでもある。「妻子が可愛いだけ」という閉じ方のみならず、《天皇が可愛いだけ》という悲劇的あるいは喜劇的な閉塞の仕方をも批判の射程内に置くものとして理解できる。家庭(妻子)のためという在り方が他の家庭の不幸を顧みないように、家(天皇)のためという美辞が他の国家・民族に対し言語に絶する犠牲を強いた記憶はまだぬぐいがたい近さにあった。「エゴイズム」を追求する場合に限らず、家(家庭)にしろ国家・民族にしろ国や個人のアイデンティティ(独自性・境界)を明確にしようとするところにこそ、あらゆる抗争が発生し絶えることがないのが人の世である。《(この日本といふ国号も、変へるべきだと思つてゐるし、また、日の丸の旗も私は、すぐに変改すべきだと思つてゐる。)》(一)とまで言い切る太宰には親子や兄弟が家(家庭)に閉塞することの危機と醜悪さ、ひいては国民(ナ)意識(シヨ)や(ナ)民族(リズ)意識(ム)の鮮明化が生み出す惨劇を見据えていたと思われる。太宰治に自己の写し絵を直観した三島由紀夫は、懸命に太宰離れをしようとした結果「裏返しの太宰治」として硬直化して行き、太宰の〈弱さ〉の意義を読み切れぬままあの悲喜劇を演じて果てたということになる。太宰を一刀両断したと思い込んでいた三島こそ、太宰の目に見えぬ刀身でその背骨(バツクボーン)に致命傷を負わされていたとも言えよう。

 家(家庭)という枠内に閉じたり、民族(国家)に閉塞しがちであるという傾向は、「島国」に住む我々日本人に共通したものと言えよう。とすれば日本人は皆志賀直哉であり、かつまた三島由紀夫(民族的熱狂(ファナティ)主義(シズム)・排外(ショーヴィ)主義(ニスム))に転じやすいということである。つまり太宰の志賀直哉批判は決して他人事(ひとごと)ではなく、我々自身に向けられたものと受け止めねばならないことになる。

 

伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このやうな欺瞞が隠されてゐる。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のやうに背負はなければならないのである。だから、昔日本に行はれてゐたことが、昔行はれてゐたゝめに、日本本来のものだといふことは成立たない。

 

伝統の美だの日本々来の姿などゝいふものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。                       (ともに「一、「日本的」といふこと」)

 

 ここまで〈読み〉を進めてくれば、右の坂口安吾「日本文化私観」(昭17)の困難な闘いはまた太宰のものでもあったことが了解されよう。過去形の「日本本来のもの」(アイデンティティ)を否定しながら現在形の「我々の独自性」(アイデンティティ)を主張する坂口安吾の開かれ方は、また太宰のものでもあったのである。破天荒な生き方という共通するイメージから括られた「無頼派」という虚名に惑わされなければ、等身大の〈他者〉を持たぬ自己中心主義を排す、あるいは家や国家・民族の自己閉塞を撃つという、貴重な実質を二人が共有していたことが見えてくるであろう。それが見えぬ者たちは、「太宰ファン」か「アンチ太宰」か(「太宰」は何にでも置き換えられる)という〈アイデンティティ〉をめぐる愚劣な抗争に興じているほかない。

 

注 

(1) 『現代文学』(一九八六・七)掲載の「高見順素描」を参照されたい。ちなみに「コキュ」は寝取られ男の意味であり、高見順の「感傷」と太宰治の「姥捨」はともにコキュの苦しみが語られている。

(2) 本書の「太宰文学の特質」を参照されたい。

(3) 「二つの実朝像――小林秀雄太宰治」(『小林秀雄への試み――〈関係〉の飢えをめぐって』洋々社