【読む】坂口安吾「いづこへ」  福岡弘彬  高見順「わが胸の底のこゝには」

 新聞の切り抜き中心に論文コピーや手紙の整理を続けていることは何度も記したけど、時間をかけてやってきた成果が出てきて満足してるヨ。あちこちにまとまっていた貴重な紙くず類が、整理されまとめられて書棚に並んでいるのを見ると、とても満足だネ。生来キレイ好きなんだナ、研究室の乱雑さを記憶している人は信じないだろうけどネ。在職中は忙し過ぎたまでで、授業数や雑用を減らしてくれればもっと整然とした部屋になっていたはずだヨ。自家も在職中は整理整頓する余裕がなく、切り抜きや資料類もあちらこちらに放置したままだったわけネ。

 切り抜きはノートに貼り付けているけれど、ノートの多くは息子が高校時代に途中まで使ったのを利用している。何が書かれているのか気にならないので、紙資源を再利用しているわけだネ。分類は文学・音楽・美術・演劇・歴史と社会の5つに分けて、ノートとファイルにまとめている。必ずしも文学が目立って多いわけでもなく、ノートは時評が多いので音楽が特に多くなっているネ。ファイルはチラシが多い美術が多くなったのは当然だネ、観に行ってない展覧会のもとってあるからネ。作業をはかどらせるコツは、記事を読まないようにすることネ。音楽時評は短いせいもあってすぐに読み始めてしまうから、厳しい自己制御が必要だ。

 

 意外に雑誌が数冊まとまって放置されているのを見つけて驚くこともあったネ。『日本近代文学』を数冊発見した時は嬉しかったナ。中でも第91集に安吾論があったのは殊のほかの喜びで、福岡弘彬さんの論なので読まない手はない。恥ずかしながら「いづこへ」は未読だったので、安吾研究に集中するというのは掛け声だけだった証左となった。白鳥の「何処へ」(どこへ)をはじめ在りがちな表題なので、安吾も読んだつもりだったのだネ。それにしてもヒドイ作品だと思ったナ、また。「また」というのは、「吹雪物語」を筆頭に安吾の小説はヒドイのがけっこうあるからだネ。

 とにかくグダグダとその場限りに書きなぐった印象で、テクストが収斂していく感じがしない。さりとて整序化して語れば面白くなるという可能性も感じられない(整序化しない語りがテクストに「重層化した時間」をもたらした、という「和解」論の手は使えない)。事実を下敷きにした作品のようだけど、テクストの言葉が自立した世界を築き得ていないのは、事実離れが中途半端なせいかな。安吾が自伝的作品で見せる、中途半端な在り方で失敗していると思ったネ。

 こんな作品を、よくも福岡さんは正面切って論じきったものだと感心するばかり。雑然としたテクストを整序化しつつ、スッキリした論文に仕上げている手際には頭が下がる。のみならずいろいろ教えてくれるのも有りがたい。「賭け」を始めとする言葉使いが、実存主義アンガージュマンからの摂取かと思っていたら、何と当時の主体性論争に関わるものだと知った。懐かしい響きの主体性論争とのシンクロは、紹介されている山根龍一さんの先行研究の指摘があるというのでそれも拝読したけれど、自家の『戦後文学論争 上巻』を取り出してきたら、「主体性論争」の論文の中に確かに安吾の「私は誰?」という評論も並んでいたのでビックリ。という次第でこの論争の突端となった荒正人の「第二の青春」を読み始めたところ。

 もう1つ驚いたのは、〈戦争責任〉問題にからめつつ高見順の「わが胸の底のこゝには」までも言及されていたことだ。高見作品に〈戦争責任〉の問題が託されているというのは、安藤宏さんが既に指摘しているというので驚きは倍増。安藤さんの『近代小説の機構』を読み飛ばしていたので、まさか「わが胸~」が論じられているとは思わなかったネ。福岡論によれば、荒正人小田切秀雄などが「わが胸~」を高く評価していたというのは、驚くというより呆れたネ。そもそもこの2人の文学的センスを疑いながら平野謙を読んでいた自分からすれば、今さら呆れるまでもないのだけれど、こんな作品を後世にも言及されるのは高見順のためにも不幸だネ。

 高見順のファンであり、「感傷」「故旧忘れ得べき」「いやな感じ」を絶賛する者としては、「わが胸の~」は初期の「私生児」から続く自伝的な作品の低迷をなぞったものでしかない。「いづこへ」にも共通する、テクストの言葉が事実離れを果たせてない中途半端さで読むに耐えない。実際全集を取り出してきたら、最初の部分だけは読んだ形跡があるものの、つまらなくて放置してあったナ。語り手が主人公に一体化してその悲運を詠嘆してしまっている(私小説的)パターンで、高見順の悪い所が全面的に出てしまった作品と言うほかないネ。安吾であれ高見順であれ、テクストの完成度が高くないとボクには論じることができないのは確か。「いづこへ」や「吹雪物語」を論じることができる論者には、教えられるばかりだネ。

 などと高見順がらみでボヤいたばかりいないで、安吾についての己れの無知を省みながら、もっと安吾に打ち込まなければ、原卓史さんあたりからまた不満とお叱りの声が聞こえてきそうだ。「いづこへ」はダメだと思ったけど、他の安吾作品をもっと読みたいと改めて思っているのでお許しを!

安吾論について語るまでの前振りが長くなったため、全体が長くなったこともお許しを!)