【読む】『シドクⅡ』より「安吾作品の構造ーー太宰作品と対照しつつ」

 

  『シドクⅡ』のブログ・アップがどこまでやったか分からなくなってしまった、ボケだネ。檀一雄の初期作品がまだだというのはハッキリしているのだけど、安吾の1本目が済んでいるのかまだなのか(2本目はやったのは覚えてる)、自信がない。先日、五味渕典嗣さんの安吾論に不満を述べたばかりだから、これならちょうどイイだろうから2度目でも許してネ(五味渕さんについては、機会を改めて絶賛します)。

 

 安吾作品の構造――太宰作品と対照しつつ

 

 

整序化できない安吾テクスト

 

自らの安吾観を修正する必要に駆られ、少々大仰な題を付けてみた。『シドク 漱石から太宰まで』(洋々社、一九九六年)において安吾作品に臨んだ姿勢に限界を感じるようになり、安吾のテクストを解釈する発想そのものを変更せざるをえないようになったという次第である。振り返ってみれば、安吾を論じようとした頃から既に感じていたことではあるが、安吾作品を対象化しようとする際に感じる一種居心地の悪さという問題である。とにかくスッキリしない。例えば志賀直哉の作品を対象とした時のように、論じ切ったという手応え(前掲書の志賀論参照)が十分に得られない。安吾に関しては自分なりの読みを構築しえたと思っても、残されたものの質量が気になるのである。やっと作品世界を己れの論理で整理できたと思うものの、整序化しきれぬものの影に付きまとわれ続けることになる。思えば前掲書でなんとか論じきった「風博士」「桜の森の満開の下」等は、安吾の中でも整序化しやすいテクストだったということかもしれない。《世界(作品)を覆い尽くす言葉など、あろうはずがない。》(同書の安吾論参照)と自ら断言しておきながら、こと安吾に関しては作品に対してあまりに窮屈な帽子をかぶせてしまったようで自省している。

といっても、ここであらためて旧論の修正版を示そうというわけではない。「真珠」(昭17)を例にとり、同時期の太宰作品と比較しながら安吾作品の特徴的な構造を急ぎ提出しておき、諸賢の批正を仰ぎたいと考える。二〇〇三年の安吾研究会で発表の機会を与えられ、苦しまぎれに「真珠」を通して安吾観を語ったのではあるが、発表者の一人押野武志氏が前振りとして論じていた萩原朔太郎「殺人事件」の分析に感心していたところ、氏から「真珠」と太宰治の「新郎」(昭17)や「十二月八日」(昭17)との比較を求められて往生した苦い思いを引きずっている。太宰とはご無沙汰がちだったので、この二作の内容を思い出せず比べようがなかったというていたらく。ただ太宰は安吾のテクストとは異なり、簡明な構造だという印象だけを述べたと記憶する。今回あらためて読み直してその感を強くしたのであるが、太宰作品は反転するコンテクスト(悲劇が喜劇に反転するなど)が想定しやすい、という意味では単純なテクストと言えよう。これに対して安吾のテクストは整序化しえぬ複雑な構造をしており、二項対立的な要素は解消されぬまま残されて居心地の悪さとして感じられる、というのが本稿の結語となるはずである。

 

     反転する太宰テクスト

 

安吾に比べるまでもなく、単純で解りやすいと思われた太宰作品の構造を確認してからと考えたが、右二作品の研究史を見ると太宰の理解の仕方も単一ではないようだ。本稿は安吾論が目的なので、太宰に関しては安吾の偏差とを浮かび上がらせるための概略に止めたい。

まずは問題の「新郎」であるが、末尾に括弧書きで《昭和十六年十二月八日之を脱稿す。この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。》と付されており、この付記が本文の「私」の感銘を根拠付けていると読む読者が多いようである。しかし昭和五年に薬物による心中未遂事件を起こしながらも、作品では必ず入水心中だったと見事な噓(小説)を提出し続けた(「道化の華」「東京八景」等)太宰という作家の在り方を考えると、末尾の擱筆時を鵜呑みにするのも危ういのではあるまいか? 言うところは《大戦勃発発表が国民に与えた衝撃というものの凄さを厳正に把握しないで、その衝撃におしだされるようにして書かれた太宰治の諸作品を迎合・抵抗という二極で語るのはいかにも片手落ちである。》(奥出健『太宰治全作品研究事典』「新郎」勉誠社、一九九五年)という明察には賛意を惜しまないながら、《開戦の日の感動と緊張とを描いた作品である》(同)と断じるのもあっさりしすぎて「片手落ち」ではないかということである。奥出氏は《「十二月八日」のように妻に語りを仮託する余裕もなく、まさしく作家の「私」の生の言葉として》(同)の表白を「新郎」に読むことで、「新郎」と「十二月八日」との決定的差異を強調するという問題提起へと進む。十分検討に価する貴重な指摘ではあるが、太宰の本音も作品の真意もともに明快であり、テクストはそのカムフラージュぶりを読んで楽しむものだとする私見の変更にまでは及ばなかった。太宰の戦争期作品に対する私の固定イメージは、今のところ動かしがたい。

美知子夫人の証言を根拠にして、作中の「私」のけなげな思いを太宰自身のものと読む論もあったが、それも危うかろう。たとえ本人のものであろうが、作品以外の言説をストレートにテクスト解釈に持ち込むことも誤読のもと。テクストは作者の意図どおりに実現するとは限らない、というのは常識のはずである。むろん、テクスト中で「私」が「太宰治」を名のるから「私」の思いは太宰自身のものだ、という類の初歩的な短絡は論外とする。

ここでは原則どおり、テクストそのものの読みに徹することから始めたい。

 

子供の寝顔を、忘れないやうに、こつそり見つめてゐる夜もある。見納め、まさか、でも、それに似た気持もあるやうだ。この子供は、かならず、丈夫に育つ。私は、それを信じてゐる。なぜだか、そんな気がして、私には心残りが無い。外へ出ても、なるべく早く帰つて、晩ごはんは家でたべる事にしてゐる。食卓の上には、何も無い。私には、それが楽しみだ。何も無いのが、楽しみなのだ。

 

「我慢するんだ。なんでもないぢやないか。米と野菜さへあれば、人間は結構生きていけるものだ。日本は、これからよくなるんだ。どんどんよくなるんだ。いま、僕たちがじつと(1)我慢して居りさへすれば、日本は必ず成功するのだ。僕は信じてゐるのだ。新聞に出てゐる大臣たちの言葉を、そのまま全部、そつくり信じてゐるのだ。思ふ存分にやつてもらはうぢやないか。いまが大事な時なんださうだ。我慢するんだ。」

 

書斎には、いつでも季節の花が、活き活きと咲いてゐる。けさは水仙を床の間の壷に投げ入れた。ああ、日本は、佳い国だ。パンが無くなつても、酒が足りなくなつても、花だけは、花だけは、どこの花屋さんの店頭を見ても、いつぱい、いつぱい、紅、黄、白、紫の色を競ひ咲き驕つてゐるではないか。この美事さを、日本よ、世界に誇れ!(傍点引用者)

 

花以外には「何も無い」物不足の日本の貧しい状況を「楽し」んだり「誇れ」たり、ここまで露骨に強調されると反語・皮肉としか受け取れなくなる。ひたすら「我慢」して見せたり、「日本は、佳い国だ。」と言いきる不自然さに着目すれば、反転したコンテクストが浮上してくるというものである。「信じてゐる」を安売りのように連発するのは不信の証であり、信じられないからこそ何度も言表するのであろう。過剰にくり返されることによって、「信じる」という言葉は稀薄になっていく。ましてや日米開戦当時の高揚を共有していない今日から見れば、空々しく響くばかりである。語り手の「私」自身は興奮に駆られて例になく神妙になり、冒頭から「一日一日を、たつぷりと生きて行く」決意をくどいほどくり返しているが、くどさは白々さへと通じていくばかりである。

以下、作家レベルでの話になるが、この「私」の感慨に太宰の本心が込められていないわけではない。仕事の邪魔になりかねない学生達を面会謝絶するために、この「けふ一日を、十分に生きる事」と言い訳する「私」には、取り巻きを敬遠したがっている太宰の本音が透けて見えるようでもある。しかし作家レベルの興奮は一過性のものに止まり、冷静さを取り戻した時点で「私」を以下に見られるような、戯画的とも見える視点で造型していると考えられる。

 

私は、このごろ、どうしてだか、紋服を着て歩きたくて仕様がない。

けさ、花を買つて帰る途中、三鷹駅前の広場に、古風な馬車が客を待つてゐるのを見た。明治、鹿鳴館のにほひがあつた。(略)

私は此の馬車に乗つて銀座八丁を練りあるいてみたかつたのだ。鶴の丸(私の家の紋は、鶴の丸だ)の紋服を着て、仙台平の袴をはいて、白足袋、そんな姿でこの馬車にゆつたり乗つて銀座八丁を練りあるきたい。ああ、このごろ私は毎日、新郎の心で生きてゐる。

 

作品末尾のこのはしゃぎぶりが唐突で、少々不可解な感は否めない。興奮が過ぎて「私」の筆(口)がすべったということか。津島家の家紋である鶴の丸にまで言及する太宰の筆は、不用意に書き過ぎている印象は否定しがたい。

 

いほり。/沢潟。/鶴の丸。/紋どころはなほ、人のこころの/根ぶかい封建性のかげに/おくふかく/かゞやく。(「一」の最終聯)

 

日本よ。人民たちは、紋どころにたよるながいならはしのために、虚栄ばかり、/ふすま、唐紙のかげには、そねみと、愚痴ばかり、/じくじくとふる雨、黴畳、……黄疸どもは、まなじりに小皺をよせ、/家運のために、銭を貯へ、/家系のために、婚儀をきそふ。(「二」の最初の聯)

金子光晴『鮫』昭12、所収)

 

周知の「紋」の一節である。むろん金子の放った日本人の心性批判は太宰のものではない。「新郎」の末尾は、したがって欧化主義の表象である鹿鳴館を顕在化して、日本主義を批判するような発想には繋がらない。あえて実家の紋所にこだわりを見せるのは、時局ならぬ自家への迎合と見えて、反面では戯画と連動した自虐とも読める。むろん「私」レベルでは自虐は想定しにくいので、作者レベルにおけるそれである。一過性の感動(本音)を含みつつ時局に同調しているように見せながら、コンテクストでは抵抗の姿勢が読みとれる不在証明作りが意図されている、というのが現時点での私見である。テクストが抱え込んだこの二重構造は巧妙に仕組まれた結果として生じているのであり、これを迎合・批判の二元論で割り切ろうとすること自体に無理がある。二重構造と捉えさえすれば、太宰のテクストは簡明ですっきりしており、安吾のようなノイズは残らない。面従腹背こそが戦争期に限らぬ太宰の戦略だと言えよう。

 

安吾テクストのノイズ

 

僕はラヂオのある床屋を探した。やがて、ニュースが有る筈である。客は僕ひとり。頬ひげをあたつてゐると、大詔の奉読、つゞいて、東条首相の謹話があつた。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。

(「真珠」)

 

この作品には三好達治平野謙等の実名が現れつつ、「僕」が安吾その人であるという誘導をしているようではあるが、むろんその種の短絡は危険である。さりとて「僕」を安吾と全く重なる所のない人物と解釈するのも誤りと言わねばなるまい。「僕」は安吾であって安吾ではない、などと言うと小林秀雄の口真似のようではあるが、そう押さえておくのが実情に近かろう。太宰の「十二月八日」では《マレー半島に奇襲上陸、香港攻撃、宣戦の大詔、園子を抱きながら、涙が出て困つた。》とあるとおり、落涙しているのは「ただ真面目なばかり」の妻の方であり、夫の作家はアリバイを保証されているが、「真珠」ではラジオを聴いて落涙している「僕」の感動は、そのまま作者のものでもあろう。開戦の緊張と感銘は国民一般のものだったのであり、《支那を相手の時とは、まるで気持がちがふのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考へただけでも、たまらない。》(「十二月八日」)と語る妻の心情は当時の一般大衆のみならず、知識人達にも共有されていたものであろう。内心では歓迎していなかった中国侵略が泥沼化していく暗雲が、欧米を相手とする戦端が開かれることによって吹き払われ、人々に心理的な救済をもたらしたという経緯による。「真珠」の「僕」も心底から揺り動かされた感銘をストレートに表白しているのであって、その率直さは開戦から半年を経ても変わらぬ安吾のものでもあろう。しかし「ただ真面目なばかり」の妻の感動と、それを茶化(相対化)し続ける結果となっている夫とが共々補完し合っているのが太宰の作品であり、そのような屈折した在り方と「真珠」というテクストの複雑さとは別物である。

「真珠」においては、「僕」が特殊潜航艇によって真珠湾攻撃に参加した「あなた方」に対する心底からの感動を表明しながらも、作品はその感動へと収斂していかない。「あなた方」に対する手放しの賞賛とは相容れない異様なノイズが入るのである。ガランドウの存在がそれであり、「僕」とガランドウとは「十二月八日」の妻と夫のような補完関係には全くない。

 

ガランドウの店先へ戻ると、三十間ばかり向ふの大道に菓子の空箱を据ゑ、自分の庭のやうに大威張りで腰かけてゐる大男がゐる。ガランドウだ。オイデ/\をしてゐる。行つてみると、そのお菓子屋にラヂオがあつて、丁度、戦況ニュースが始まつてゐる。ハワイ奇襲作戦を始めて聞いたのが、その時であつた。当時のニュースは、主力艦二隻撃沈、又何隻だか大破せしめたと言ふのであるが、あなた方のことに就ては、まだ、一切、報道がなかつた。このやうなとき、躊躇なく万歳を絶叫することの出来ない日本人の性格に、いさゝか不自由を感じたのである。ガランドウはオイデ/\をしてわざわざ僕を呼び寄せたくせに、当の本人はニュースなど聞きもしなかつたやうな平然たる様子である。菓子屋の親爺に何か冗談を話しかけ、それから、そろそろ二の宮へ行くべいか、魚屋へ電話かけておいたで、と言つた。

 

先の一節に続く引用であり、「僕」が万歳を叫びたくなるような高揚の中にいるのに反し、ガランドウはそれを共有せずに距離を置いているように見える。作者の意図は量りがたいが、ガランドウの存在はテクストが「あなた方」に対する賞賛に一元化する妨げとなっているのは否定しがたい。安吾自身が意図したとも思えないのに(あるいは安吾としては一元的な物語を語ろうとしたにもかかわらず)、テクストが一極に収束して行かないのが安吾作品のスキゾフレニア(分裂症)的な特徴であり、座りの悪さを印象づけていると考えられる。

ガランドウの活躍は続く。

 

国府津でバスを乗換へて、二の宮へ行く。途中で降りて、禅宗の寺へ行つた。ガランドウの縁りの人の墓があつて、命日だか何かなのである。寺の和尚はガランドウの友人ださうだ。ガランドウは本堂の戸をあけて、近頃酒はないかね、と、奇妙な所で奇妙なことを大きな声で訊ねてゐる。本堂の前に四五尺もある仙人掌があつた。墓地へ行く。徳川時代の小型の墓がいつぱい。ガランドウの縁りの墓に真新しい草花が飾られてゐる。そこにも古い墓があつた。ガランドウは墓の周りのゴミ箱を蹴とばしたり、踏みにぢつたりしてゐたが、合掌などはしなかつた。てんで頭を下げなかつたのである。(略)二の宮では複々線の拡張工事中で、沿道に当つてゐたさる寺の墓地が買収され、丁度、墓地の移転中なのである。ガランドウはそこが目的であつたのだ。(略)

ガランドウは骨の発掘には見向きもしなかつた。掘返された土の山を手で分けながら、頻りに何か破片のやうなものを探し集めてゐる。ここは土器のでる場所だで、昔から見当つけてゐたゞがよ、丁度、墓地の移転ときいたでな。ガランドウは僕を振仰いで言ふ。

 

ガランドウが「てんで頭を下げなかつた」のは墓に対してだけでなく、「大詔の奉読」や「首相の謹話」等すべてのものに敬意を払うことなく、もっぱら酒や土器の趣味の世界に生きているように見える。日本海海戦を連想して「天気晴朗なれども波高し」と高揚抑えがたい「僕」と対照すると、東海道の様子と同じく「まつたく普段に変らない」ガランドウの姿が際立ってくる。もっともその「僕」も目的地である二の宮の魚屋の店先でガランドウと二人焼酎に酔い、通りがかりの主婦のヒンシュクを買っている。その不謹慎ぶりを半年後の回想で「あなた方」と対比して語ることになる。

 

十二月八日午後四時三十一分。僕が二の宮の魚屋で焼酎を飲んでゐたとき、それが丁度、ハワイ時間月の出二分、午後九時一分であつた。あなた方の幾たりかは、白昼のうちは湾内にひそみ、冷静に日没を待つてゐた。遂に、夜に入り、月がでた。あなた方は最後の攻撃を敢行する。

 

「あなた方」との心理的距離の大きさが「僕」の感動を増幅しているのであり、了解不能な行為に「非情」等の言葉をかぶせたりしつつ、自分なりの納得の仕方をしようする。自己の根底から揺り動かされながらも、理解不能なままで放置するのは落ち着かないからである。それはあたかも、安吾のテクストを前にした我々読者が置かれる立場に似ている。もっとも国のために死ぬという「あなた方」の心理は、安吾作品とは異なり単純簡明ではある。理解しがたいのは「あなた方」の心理ではなく、「死」を覚悟することができているという事実であろう。「僕」が終始「死」を主題化して語るのも、「畳の上の甘さ」から脱けがたい「僕」にとって、自ら進んで死ぬことができるということが不可解なゆえである。国のために命を捧げることに感動しているのではない、近い将来の死を前提として生きることができるという「超人」的な在り方が、想像を絶していて了解不能なのである。(2)

 

あなた方は、汗じみた作業服で毎日毎晩鋼鉄の艇内にがんばり通して、真珠湾海底を散る肉片などに就ては、あまり心を患はさなかつた。生還の二字を忘れたとき、あなた方は死も忘れた。まつたく、あなた方は遠足に行つてしまつたのである。

 

「あなた方」との絶対的な距離はそのまま放置されたまま、「まるで遠足に行くやうだ」という言葉が「僕」の中に反響しながら右の結語に至るわけである。「心を患はさ」ずに「死も忘れ」た「あなた方」の行為は、子供の遠足に重ねられて理解されることによって、その無私・無葛藤ぶりが強調されることになる。読みようによっては「あなた方」の内面の淡泊さがその空虚さを、すなわち内面の〈ガランドウ〉状態を示唆しているとも読めてくる。つまりは「真珠」というテクストは二つの〈ガランドウ〉(空虚)という極の間で「私」が浮遊する、という読み方の可能性を孕んでいるということである。もちろんそうした批評意識を作家が抱え込んでいたというつもりはない。あくまでも作家の意図を超えた読みの可能性、という次元の問題である。

本稿の主旨に戻ってくり返しておけば、太宰のテクストは時局に迎合しているように見せながら、そのコンテクストには得意の〈分身〉の術によって抵抗の姿勢が読み取れるようなアリバイ作りが意図されている。テクストの二重構造は仕組まれた結果として生じたものである。一方の安吾のテクストにおけるノイズの共存は作家の計算から外れた現れ方をしており、それが収束点を持たぬまま投げ出されているものの、テクストそれ自体は巧妙に着地して閉じられる。例えば「風博士」や「紫大納言」・「桜の森の満開の下」のように、中心人物が消え去ることによってテクストが抱え込んでいた葛藤が消滅したかのように思わせる手口がそれである。読者がそこで立ち止まっている限り愉楽を味わっていられるが、ひとたび消えることの意味を探り始めるや、我々は地図に描きようがない迷路の中に封じられることになる。まことに居心地の悪いテクストというほかない。

 

小林秀雄安吾

 

安吾と太宰の小説の構造の差異という課題に関しては意を尽くしたと考えるので、開戦時の感動という問題について補足しておきたい。次の引用は誰のものと思われるだろうか?

 

「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。僕等凡夫は、常に様々な空想で、徒らに疲れてゐるものだ。(略)

何時にない清々しい気持で上京、文芸春秋社で、宣戦の御詔勅捧読(3)の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。

(「三つの放送」『文芸春秋』昭17・1)

 

小林秀雄の新全集に初めて収録されて陽の目を見た発言である。〈作品〉とは言いがたいので「発言」と呼んでおく。これも二〇〇三年の昭和文学会秋季大会の小林秀雄特集のシンポジウムで、パネリストの一人細谷博氏がこれを紹介しつつ「立派な文章」という評価を下した。急遽代役としてパネリストを引き受けていただいたにもかかわらず、さすがに有能な小林研究者である氏は、他にも種々の刺激的な問題提起をしてシンポジウムを盛り上げてくれたのではあるが、「立派な文章」という評価付けに対してはそれ以来異和感を抱き続けている。安吾と太宰の比較という主題にも沿いつつ、開戦時の小林の発言に対する私見をここに付しておきたい。

結論から明かしておけば、「三つの放送」はとても「立派な文章」と呼べるシロモノではなく、軽い気持で書き流したためか、文体が小林の作品とは思えないほど緊張感・緊密さに欠けている。生前の小林が雑誌発表のままで再録しなかったのも十分にうなずける。収録を避けたのは、開戦の放送を「一種の名文」とまで呼んでいるやましさを伏せたかったのではなく、それ以前に〈作品〉とは認めがたかったからであろう。書くことで口を糊する者としての文章ではない、と判断したためのはずである。

ともあれ開戦放送を「一種の名文」と感じたのも、宣戦捧読に目頭を熱くしたのも噓偽りのない小林の真情であったろうと思われる。「真珠」の「僕」や「十二月八日」の妻の気持と何ら変わるところが無いと言ってよい。変わるところが無いのは、小林が一人の「凡夫」や「日本国民」としての立場で語っているからである(4)。知識人の眼で状況を〈見る〉(分析する)のではなく、〈見えない〉大衆の立場で事態を受け止めているのである。それは日中戦争が勃発して以来の小林の姿勢であった。左右の知識人がそれぞれの「言葉」(観念・イデオロギー)に閉塞していた時に、「言葉」を持たない大衆のレベルに自己を定位しようとした小林の在り方は、《言葉のいらない時が来た》と感じる「真珠」の「僕」の姿に重なってくる。

もちろん「十二月八日」の妻の位置にも共通するのであるが、太宰作品ではアリバイを持つ夫が作家自身を安全地帯にかくまっている。

 

 太宰治を排除しつつ安吾と小林をくくるものの一つは、左翼運動体験の有無である。一跳びに己れをインターナショナルな革命という「言葉」につなごうとする短絡に足をすくわれることなく、《喜んで国の為に死ぬ》(小林)《必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ》(安吾)という大衆次元で発想する共通点である。これは逆に言うと、安吾や小林には国家を対象化して捉える観点が根本から欠落している、ということになるのではあるが……。

 かつて現実の世界を改変しようとした者が状況を〈見る〉眼を保持し、それ故にこそ左翼体験を持つ太宰の作品が面従腹背という構造をとったと言えるのか? 革命運動の洗礼を受けていない文学者は、国家を対象化する視点が欠落しているが故に、非常事態になると大衆レベルの反応が前面に出てしまうのか? 興味は尽きないが問題はあまりにも大きい。稿を閉じるに越したことはない。

 

(1)「ぢっと」とあるべきところであるが、太宰の書き癖としてそのままにした。

(2) 花田俊典の「超人と常人のあいだ」(『坂口安吾生成』白地社、二〇〇五年)を読みながら故人を偲んだ。というより、読みながらシュンテンとの対論が始まってしまい、未だにその死が受容しきれないでいるようだ。『太宰治のレクチュール』の書評(『国文學』一九九九・一)に書いたとおり、〈読む〉と〈調べる〉の両方に卓越した稀に見る研究者であることを改めて再確認した。「真珠」の〈読み〉に関しては、以下のような相変わらず歯切れの良い断案に共感しつつ、己れの論考を補強されたようで励まされた。

坂口安吾のいる場所は、いわば好戦/反戦といった枠組のなかにはない。》

坂口安吾は〈死〉をキイ・ワードにして、〈超人〉と〈常人〉のあいだを考えてきたのであったといえるかも知れない。》

(3) 引用した「真珠」では「奉読」であるが、ここでは原文のままにした。

(4) 詳細は拙著『小林秀雄への試み――〈関係〉の飢えをめぐって』(洋々社、一九九四年)を参照されたい。