【読む】青銅記念号  イチローの寄稿文

 メイの文章がオモシロかったので、そちれにばかり注意が向いてしまい、自分のをアップするのを忘れていた

 

   わが昭和文学ゼミ                  関谷一郎

 

 

 私の顧問時代の昭和ゼミについて、率直なところを書き残しておきたい。

 

 平成4年(1992年)に宇都宮大学(10年間勤務)から学大に赴任したのだが、当時の学大の教員の授業負担は週に8コマ前後あったので、ダマされたという思いが強かった(宇都宮大学は楽だったナ、週に2回はテニスできたし)。その上で昭和ゼミという負担まで課せられて(あくまでもボランティアという建前だったけど)、毎日がタイヘンだったというウラミばかり残っている。私の定年退職記念号の『学大国語国文』第46号で、当時は非常勤講師だった大井田義彰さんが《研究棟の廊下ですれ違ってもほとんど声を懸けてもらえず、》とボヤいているけれど、忙し過ぎて教員・学生を覚える余裕などなかったというのが実情だった。

 

 宇都宮大学でも教育学部に在職していたので、宇大の学生と変らぬ学大の学生の真面目さにはすぐに馴染めて楽だったし、自分が卒業した文学部の学生とは異なる人なつっこさには助けられたという実感はあった。とりわけゼミ長だった土屋佳彦君をはじめとするゼミ員との付き合いは、研究室やゼミ室でホッとできる時間で癒されたものだ。前ゼミ長の山根正博君が、気の良いチンパンジーぶりのハシャギようで人気者だったのを見るのも、気持が休まるひと時だった。その山根君が今や附属国際中高校の教員に納まって実習生にはむやみと厳しいとか、別人のように閉塞気味となり昔の仲間を避けている印象なのは気になっている(家庭で何かあったのかな、ボクみたいに?)。

 前任者の大久保典夫先生が、研究室の本を守るために学生の立ち入りを禁止していたと聞いて驚いたけど、数冊欠けていた『近代文学評論大系』(角川書店)を私が全10巻揃えていたので、山根君が欠けていた大正期の巻を借りたいと言った時は、実はマジメで勉強家だったのだと意外な思いだった。宇大には下の階に学生控室があったので、学生が研究室に入りびたることはなかったけど、学大には学生控室が無かったので、自由に研究室を使ってもらっていたし、他の研究室も同様だったのは後で知った。しかし中学生の頃からの日課だった昼寝をする時は、学生には研究室から出てもらったものだ。昼寝はしても研究室では研究しないタチなので研究机は処分して、廊下にあった来客用のソファを室内に入れて昼寝用のベッドにしていたけど、代々学生も「昼夜を分かたず」利用していた模様。

昼寝に利用していた学生のみならず、研究室を居場所にしている学生も現れるようになり、下ネタ好きな女子ゼミ長だったジューシー(本名は伏す)は他では言えないネタが自由だったので、「ここにいると落ち着くワ~!」と洩らしていたのも忘れない。研究室に遅くまで居たり・学生が自由に出入りできるようにハードルを下げたせいもあってか、他人には言えない重い悩み相談も受けたこともあった。帰宅せずにいて良かったと思うことも1度ならずあった反面、ヒドイ目に遭って癒しを求めてきたのに、あいにく留守の日だったので後で申し訳なく思うこともあった。

 

 ともあれ過剰負担から、当初はゼミの最中に眠り込んだことがあったのは否定しない。梅津ゼミ長だった時だと思うけど、居眠りして後ろにコックリしていたらしく、思いっきり後頭部を黒板に打ち付けて目が覚めたら、皆が私を見て笑いをこらえていた表情の記憶は鮮明だ。先日の『シドクⅡ』の出版記念会にも山梨から参加してくれた芦沢美和さんや、筧恵さん(共に旧姓は伏す)の2人もその場にいたと思う。

 顧問になってすぐに他のゼミと異なる「指導」したのは、同じ作品を2週続けては議論しないこと・長篇小説は取り上げないという2点だった。前者は私が飽きっぽいためであり、後者はゼミ員に負担をかけないためであった。1回限りの議論になったので長時間に及び、ゼミが終るのが9時を過ぎるのがフツーとなった。それから恒例の呑み会になるので、翌日の授業のためにも解散は午前0時と決める次第となった。

 こちらの思惑どおり活発な議論を展開してくれるので聴いていて楽しかったし、作品は学生が選ぶので私の守備範囲外の作家を読む機会にも恵まれたのも収穫だった。ゼミ長だった吉岡智君が取り上げた、田口ランディ「富士山」に登場するゴミ屋敷の婆さんがジャミラと呼ばれていたので、わが家のゴミ屋敷ババアにふさわしい名称として流用させてもらえたのはまことに好運であった。その吉岡君が好意で「エヴァンゲリオン」のDVD全巻を研究室に置いて貸し出していたものを、ゴッソリ盗んでいった者が現れるとは! 研究室の歴史上の最悪の事件として忘れることができない。角部屋の研究室だったので、外部の者にも入りやすかったとはいえ、学大にその手のサイテー最悪の人間がいるとは情けない限り、人の信頼を裏切ったこの盗っ人に対しては未だに殺意を感じている。倫理と共に在る人類の名において成敗してやりたい一心。

 明治・大正ゼミとは異なり、昭和ゼミは少々個性が強すぎる学生が国語科を超えて集まるので、それを忌避して他のゼミを選ぶ学生もいたようだ。中には気に入らないゼミ員がいると排他的に暗躍する邪悪な者もいたということを、後になって知らされたこともあるのは残念至極。イジメられていたゼミ員が、邪悪者を呼ばなかった先日の記念会に、ホッとした表情で参加してくれたのも嬉しかった。

 

 学大では講演会などで知り合った熟年の方々に授業への参加を促していたし、非常勤講師としてどの大学に行っても他大学の学生の参加を歓迎していたのと同じように、昭和ゼミにも一橋大や立教大の学生が参加していたものだ。作家となった金城孝祐君やボッキマンこと松波太郎君の2人も、そうしてゼミの仲間となったわけである。松波君はハルキの「午後の最後の芝生」の議論が一段落した後で、やにわに「僕はこの勃起というのに注目したいのですけどネ」と切り出したので、その場でボッキマンの名を奉られるハメとなった。それぞれすばる文学賞文学界新人賞を受賞して作家になっているが、武蔵野美術大学大学院油絵コースを修了した金城君は、先ごろ出版した拙著『太宰・安吾に檀・三島 シドクⅡ』の装丁をしてくれたものが好評だ。

 立教大大学院オーヴァー・ドクターの栗田卓君は、昭和ゼミ2代目の師範代となってくれたので、退職する前の数年は栗田君のお蔭で昼寝したのち途中からゼミに参加すれば済んだため、深夜まで老体がもったわけである、感謝に堪えない。

 ゼミ後の呑み会では、昭和ゼミの名物として、焼いたバケット(フランスパン)にオリーブ油を垂らしたものと、オイル・サーディンをリッツに乗せたものが定番となった。ともに私のアイデアだったけれど、パプリカやルッコラ、そしてバジル・トーストなどは学生が教えてくれた美味である。

そもそも研究室で呑み会を始めたのは私が顧問してからの昭和ゼミで、大久保先生の頃には学生もバンカラ風で、後輩に呑ませるためにバイトをするという本末転倒ぶりだったのを改めるためにも、呑み屋には行かさずに部屋で呑ませるようにした。と同時に一気呑みや先輩からの無理強いを防ぐことができ、呑み方の「指導」も兼ねることができて安全だった。その後は他のゼミも部屋呑みが一般化したようである。

 

 ふだんから長時間熱心に議論しているので、2泊3日の館山夏合宿では1夜だけ夕食後にゼミをやり、あとは釣りや海での遊びや交歓に徹するようにした。夏合宿には毎年少なからぬ宇都宮大学の卒業生が合流したので、ゼミでは年長者からの刺激で成長が促されたと思う。宇大と学大との卒業生は、今でも5月連休と夏休みに合同で釣りを楽しんでいる。

 『青銅』の刊行は内田先生がご熱心だったものを、私が受け継いで持ちこたえていたけれど、年度によっては大幅な赤字になることもあり、ツライ思いも無かったわけでもない。今では大井田さんの手際で上手く行っているようで何よりである。