【状況への失言】アルメニア vs アゼルバイジャン戦争   《小国家民》という理想

 世界情勢に「失言」してもあまり意味ないのだけど、アルメニアというと気になるのでネ。音楽家で言えば親しみやすいハチャトリアン(「剣の舞」を含む組曲「ガイーヌ」が有名)の国だし、それ以上に大好きな画家の1人である ジャンセンの出身地なのだナ。歴史的にはアゼルバイジャンと同じ民族の国家であるトルコによって、大量虐殺されたことがある民族だということで、アルメニアが忘れられないのだネ(トルコはそんな事実はないと主張しているけど)。同じことはフセインイラクによって毒ガスで大量虐殺されたクルド族にも当てはまり、やはり念頭を去らない民族なのだナ。周囲の大国に比べれば、少数民族として虐待・排除されてきた歴史を強いられてきたので、同情しつつ忘れがたい人たちなのだネ。《常に弱者の立場に立て》というモットーで生きているからかもネ。

 何故この両国が戦闘状態に陥ったかは、以下の「ニューズ・ウィーク」(日本語版)の説明が要を得ている。

 

ナゴルノカラバフは現地語で「山岳地帯の黒い庭」を意味する。その名のとおり美しい高原地帯で、アルメニア人、アゼルバイジャン人双方がこの地に愛着を抱いている。

アルメニア人がこの地域の住民の多数を占めるが、ロシア革命後、後にソ連共産党となるボリシェビキがこの地域をアゼルバイジャン共和国編入した。アルメニアアゼルバイジャンソ連の共和国だった時代には、そのことはあまり問題にならなかった。アゼルバイジャン共和国内には多くのアルメニア人が住み、逆にアルメニア共和国にも多くのアゼルバイジャン人が住んでいたからだ。

アルメニア人の多くはキリスト教の正教徒で、アゼルバイジャン人の多くはイスラムシーア派だが、ソ連時代には宗教は公認されていなかったため、信仰の違いもさほど問題にならなかった。だが1980年代にソ連の統制が緩むと、ナゴルノカラバフにいるアルメニア人がアゼルバイジャンの支配に抗議の声を上げ、アルメニアへの編入を求めるようになった。

1988年には民族的な対立が激化。アゼルバイジャンの首都バクー北部の都市スムガイトでアゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃し、多数の死者が出る事件も起きた。

1991年にソ連が崩壊すると、ナゴルノカラバフは一方的にアゼルバイジャンからの独立を宣言。アゼルバイジャンアルメニア共にこの地域の領有権を主張して譲らず、世論は主戦論にあおられ、戦争突入は不可避の事態となった。

 

 幸いロシアの仲介によって、今日の日本時間5時から休戦状態になると取り決められたそうだけど、実現されることを望むネ。中近東ではこの種の休戦がすぐに破られるから、同じことにならないように願いたいネ。大小を問わず、戦争こそ人間の愚かさの表象だからネ。《小国寡民》を理想としている立場としては、この種の紛争に出遭うたびに苦しむヨ。第一次大戦後にアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が主張した《民族自決》には心底共感するのだけれど、現実世界ではなかなか実現しにくいものだからナ。

 今回のように元宗主国(?)であるロシアの登場によって局面打開がしやすいように、共に大国に属していればこそ対立・戦闘を避けられるものの、《小国》に分断・独立を果たすと《小国》同士の戦争に突き進んでしまいがちなのが現実だからネ。以前にも書いたけど、旧ユーゴスラビアが分裂し始めたとたんに複数の民族がそれぞれ独立しつつ、多民族との戦争状態に陥ってしまった苦すぎる事実があるからネ。ユーゴスラビア時代には、強大な権力を握っていたチトー大統領のお蔭でまとまっていたと知った時にはガッカリしたものだけど、強者への従属か弱者の自立かというジレンマがいつも念頭を去らずにあるヨ。従属を拒否して独立しようとすると、他の弱者との戦闘が始まってしまうという悩み。《小国寡民》こそ理想だと思いながらも、その理想が新たな対立を生むとなると、単純に理想を語れないので鬱屈せざるとえないのだナ。

 せめて生きていく上では、生きる世界を広げ過ぎずに手が届く範囲でベストを尽くすしかないと思いつつ、大言壮語を控えながら「失言」し続ける決意なのだネ。