【ゼミ部】オンラインとのハイブリッド(増補版)

 発表者・司会者を含めて対面参加者が7名も集まったとは驚きだネ(もちろんヒッキ―先生とボク以外の数)。オンライン参加は宮城からリューマン夫妻、栃木からはアイ~ン夫妻とコイちゃんを含めて8名もいたのだから、ゼミ再開第1回からずいぶんと盛んなものとなって嬉しい驚き。オンライン参加はヒッキ―先生の慣れた手つきで速やかに運んだので、想像以上に上手く運んだヨ、ヒッキ―先生に感謝!

 レジュメはギリギリまでガンバッタものの、ハッキリした結論までは至らなかった模様だったけれど、問題提起としては十分だったから議論が予想外に盛り上がった。ボクとしては初めて読む作家だったけれど、意外に書法が上手くこなれていると感じた。事実と回想との2つの時間が語られる交代の仕方が絶妙だと思った。語りが警察官から始まりながらも、太郎の内面を語るようになる(太郎に内的焦点化されていく)という問題は、学部生のブッチ君が気付いたのは鋭い(ブッチという愛称は杵塚クンにカワイソーだと言ったら、皆が可愛らしい呼称だというのでボクも追認した)。

 こんな作品に先行研究があるとも思えなかったのに、鈴木貞美川崎賢子・開信介・須田千里などのものが紹介されたのでチョッと驚きだった。それにしてはどれも時代背景ばかりを、それもアメリカとの関係ばかりを論じているようで、テクストを正面から分析していないのでガッカリだ。そんなことで作品を論じた気になられては困るからネ、少なくとも鈴木・須田両氏にはテクストを分析する能力があると思っているし。

 基本的なテクスト分析が欠けているせいか、質疑もそこに集中することになった。表題の「母子像」からしキリスト教のイメージなので、その点に質問や意見が続出した。しかしマリアといえば聖母以外にもマグダラのマリア(太郎の母と同じく娼婦と言われている)もいるので、その点をどう解釈するのかというアイ~ンの疑問が出たのも当然だった(けどこの二重性はそもそもマリアという名に伴うものだし、詳細はサトマン君が論文化するだろう)。リューマンから指摘されたように、母子が「洞窟」の中にいる場面もキリスト教的だし(ダヴィンチにも「洞窟の母子」という作品があるネ)、太郎の同級生の女子名がわざわざ「ヨナ子」といのも、旧約聖書で大魚に呑まれるヨナを思わせるなど、むやみとキリスト教のイメージがくり返されている。

 吉田健一が英訳する時に「Mother and Son 」の son が child ではないのがオカシイという指摘が、ジッド研究者・西村クンから指摘されてナルホドと思ったネ。ポール・サイモンが独立した頃の歌も「 mother and child 」という表題だったし、さすがに海外文学の専門家らしい気づきだったけど、 son にした理由が何なのだろう? 母子像の直訳じゃなかろうに。西村クンからは、豚が出てくるところも聖書を思わせるという指摘もあった(イエスが悪霊を豚に取り憑かせて、豚たちを崖から飛び降りさせて滅ぼさせる奇蹟)。

 

(1000字を超えたので、いったん切るネ。)