【ゼミ部】その3、法政大院2名からの補足

 途中からオンラインで参加した法政大院の杉本クンは十蘭に詳しい人だそうで、キリスト教ダネは英訳されるのを見越してアメリカ人に合せた可能性がある、という指摘はなるほど専門家らしい見方だと感じた。杉本クンの研究仲間の同じ法政大院の関口クンが、レジュメを送ったら実に的確な感想を送ってくれた。(共にホメているのだから匿名にしなくてイイだろネ。)感謝の意を込めて、ボクからコメントを付した(@の印)。

 

久生十蘭の代表作のひとつとはいえ、先行研究がわりとある(けれども、なんだか物足りない論じかた)とおもいました

論本編については、もうすこし「読み」の部分がほしかった気がしますが、そのあたりはゼミで活発に討論されたのかなとおもいます(それだけに参加できずに残念です)

 

もしも関口が参加していたとしたら、以下のような問題を提起していたとおもいます

 

・舞台が1952年である意味。事件がうごきだすのは5月3日ですが、これは占領解除と入れ替わりです。

(日付についてはもうひとつ気になるところがあって、線路の一件は10月8日と書かれているのですが、太郎の発言には「10月の第一土曜日の夜」とあったのでおかしいなとおもい、調べてみると、現実の1952年の第一土曜日は4日でした ← コレはただの十蘭のミスかもしれませんが)

 

@ これは問題になった論点だったけど、十蘭のミスの可能性まで調べたのは関口クンの手柄。

 

・そもそものタイトルの意味がわかりにくいこと(「聖母子像」のイメージか「ピエタ」のイメージか。「ヨハネ」という人物を配することから前者かとおもわれますが、前者だとすると「聖」のイメージを落としていることが気になります)

 

@ ゼミの最中にピエタという言葉が思い出せず、キリスト降下のテーマを何というか皆さんに尋ねたら出てこなかった理由が、関口クンのメールで分かった。西村クンが教えてくれたようにピエタは憐みという意味だから、「降下」ではないのにボクが勘違いしていたわけだ。「ピエタ」で有名なのは、ミケランジェロの彫刻かな。あれはマリアが亡きイエスをヒザの上に抱きかかえている形だから、「降下」は十字架から降ろされつつあるイエスの左右に2人のマリアがひざまずいている形と言えるだろう。でも「ピエタ」と「降下」を混同している作品は、ボクだけじゃない気もしているけどネ。

 

サイパンで母親が「いくども復唱させた」ことばが、キリスト教のイメージでなく、ギリシャのイメージであること

→「ギリギリの最後を、歴史のお話とすりかえて夢のような美しいものにしようとしている」あたりは、レジュメ6頁の「太郎が自分の内面に母の姿を見出だしており」という箇所ともつながるかもしれませんが(女装も本人の語る動機だけではなく、母親への同化願望?)

 

ドストエフスキイ『悪霊』を想起させる意匠(石鹸を塗った紐(結末)、豚(エピグラフ)、ヨナ(ウォルインスキイ『偉大なる憤怒の書』)など) ← たぶん、たまたまなのでしょうが、十蘭の方法(ペダンティカルな複合性)的にはなにか隠している可能性もあるかも……ともおもわされます。

 

@ イエスが悪霊を豚に取り憑かせて、崖から落として全滅させたというエピソードが聖書にあるというのは、ゼミの最中に西村クンが指摘してくれた通り。関口クンが言うように、ドストエフスキー「悪霊」のエピグラフにはこの「聖書」から長く引用されている。もう1つ関口クンが教示してくれた紐に石鹸を塗る話は、主人公のスタヴローギンが上手く首吊りで自殺できるように、滑りを良くするための所作だというのは完全に忘れていたネ(思えば半世紀近く読んだまま再読を果たせてない)。それにしても、法政大院の授業の時にも感じたとおりで、関口クンはよく読み何でも知っている人だネ。

 

また、機会がありましたら、ぜひ参加させていただきたいとおもいますので、ご連絡いただければさいわいです。

 

@ 次回からオンラインでも参加して欲しいネ、できれば発表もネ。もちろん杉本クンも含めてネ。