【読む】『シドクⅡ』に対する書評(2)  柴田勝二

 実は1ケ月ほど前に、ある学会から書評を頼まれたことがある。恥知らずにも恣意的なことばかり書く人のものなので、丁重にお断りした。評価できない人のものを読んだり評したりする時間が惜しいという理由だったけど、ボクが書いたら自制しても悪意が現れてしまうことが必至だからだ。稀に書評子の立場を悪用して、著者を傷付けるだけの書評を見かけるけれど、その二の舞は避けようとしたわけでもある。柴田さんの書評には、この悪意らしきものが見当たらないのも清々しい。しかし「紹介」としては丁寧に各論の内容を手際よくまとめてくれているものの、「評」の面では不足を感じざるをえない。

 正直に言って通り一遍の書評という印象で、《伝わってくるもの》がないのでもどかしい。拙著の前書きに引用した安藤宏・山﨑正純両氏の批評のような熱さが伝わってこないのだナ。氏の論を読んだことがないので、論文にもこの熱さが欠けているのかどうかは分からないけれど、三島由紀夫論者として対応しきれていないか気がかりだ。三島を論じるには、柴田さんは紳士過ぎるのじゃないかと。

 もっとも、ボクの前の2著は上記2氏や渡邉正彦さん(元・群馬県立女子大)から素晴らしい書評をいただいたパワーがあったのに、『シドクⅡ』にはその力が欠けているので柴田さんを熱くできなかったのかもしれない。しかし振り返れば、1年前には少なからぬ熱い感想・批評をいただいた手応えも忘れがたい。柴田さんの意志に反して、お座なりの書評のように感じてしまうのもその手応えゆえだ、申し訳ないながら。

 もちろん実績も実力もある柴田氏のような人に貴重な時間を割いて書評を書いてもらい、評価の言葉を記してもらえるのはありがたい機会ではあり、感謝の気持は十分に抱いた上での不満ということだ。

 「風博士」や「桜の森の満開の下」の論じ方を引きながら《これは評者も同感する安吾作品の特質だが》とか、《安吾文学が容易な主題把握に収斂されない拡散的な性格を帯びているというのは妥当な把握だが》とか、また「近代能楽集」論に触れながら《その逆の構図によって捉えられがちな三島文学に対する視角としての斬新さをもっているだろう》とか、《理論や概念によらず、自身の眼によって作品を読み解こうとする著者の姿勢は評価されるもので、共感を覚えた》などと具眼の士から褒めてもらって嬉しいものの、「上げてから落とす」という批評の常道の「落とす」方がズレている印象なので、単純に喜んでばかりはいられない。

 字数が多くなるので具体例は次に回したいけれど、《総じてこの著書では(略)戯曲に比重が置かれていて、それが著者の個性となっている。》というのもズレている印象で、個人的にはありがた過ぎる評価にヤマシさを感じて苦笑が洩れてしまう。『シドク』で小説に限らず詩や戯曲も論じられる研究者を目差すと記しながらも、戯曲がボクの「個性」とまで書いてもらうと戯曲の専門家に叱られるか、バカにされそうで困ったナ。評価してくれたのは柴田氏だからその責任をとってもらうことにして、ボクは単純に柴田氏にホメられたことだけを人知れず寿いでいよう。