【読む】『シドクⅡ』に対する書評(3)  柴田勝二

 書評について書いていたら、シズカちゃんから『シドクⅡ』を読み終えたというメール(旧姓・藤本)が来たヨ。産休で余裕ができたので読みきったそうだけど、「金閣寺」を再読する気になったというのは嬉しかったネ。静香は本名だけど、ドラエモンのしずかちゃんに似たイメージのシズカちゃんが、子供を産んだり育てたりする姿は思い浮かべにくい。児童文学が好きでオンラインで講座を受講しているというのだから、文学が好きなのだネ。それにしてもボクの本が胎教に良いとも思えないのだけど、ダイジョブかな?

 

 ともあれ書評についてのコメントだ。特にこのままだとボクがアホみたいに思われてしまう箇所に対して、弁解させてもらいたいのだナ。ファミリーの中には研究者もいて、書評が載った学会誌を読む仲間もいるだろうし。

① 先に引用した「風博士」などに関する言及を、《これは評者も同感する安吾作品の特質だが、》(「安吾作品の構造」)としながらも《その収束点の不在が何に由来し、何を物語るのかという探求はとくになされていない。》(同)と続けるのだが、次の段落で「何やらゆかし、安吾と鷗外」から引用されているとおり、《「中心(主題)」が不在である》という答えを出したつもりだった。柴田氏が言う「何に由来し」ているのかは、「安吾論の構造」でも《テクストが一極に収斂して行かないのが安吾作品のスキゾフレニア(分裂症)的な特徴であり》と論じているとおりである。

 柴田氏がそれ以上何を求めているのかは不明なので応えようがないが、「何やらゆかし~」で安吾と鷗外(の歴史小説)との共通性として「中心(主題)」の不在を指摘している点は共感してもらえたものの、《また歴史への眼差しの異同を探る対象は芥川龍之介遠藤周作であっても良いはずで(略)論の興趣は増したと思われる。》と言うのは誤読による無理難題と言わざるをえない。未読の遠藤の歴史小説は知らず、龍之介とくれば「中心」のある「主題小説」の名手だからハナから比較するまでもなく論外である。

 論外といえば檀一雄の章で(おそらく柴田氏は檀をあまり読んでない)、「火宅の人」と太宰とは《「炉辺」を嫌悪するロマン的な衝動において共通性を示す太宰との比較については、(略)さらに踏み込んだ考察が試みられてもよかっただろう。》と言うのもスジ違いというほかない。先の《探求はとくになされていない》と同様で、漠然とお茶を濁す書評の決まり文句なのかもしれないけれど、明確な批評を突き詰めるべきだというのが私の立場である。

 厳しい言い方になってしまったものの、そもそも太宰・安吾・檀・三島という論者の守備範囲をすべてカヴァーするのが無理な話で、不案内な檀の論についてはスルーしておくのが無難なわけだ(ボクならそうするところ)。やはり柴田氏の人の良さが出てしまったのだろうけど、「火宅の人」論の面白さは檀のテクストがきちんと読めることを証明した貴重なもので(自分で言うナ!)、作家・檀一雄を排除して分析しきっている。だから太宰の家庭小説との比較など眼中になく、その意味も認められない。

 

@ 長くなったので、三島論については改めて。