【読む】『シドクⅡ』に対する書評(4)  柴田勝二

 残る三島論についても言及して終りたい。

 「綾の鼓」で「百(回)」という数字に「自己閉塞」している岩吉が、《次の〈百一回目〉を打ったとしても、葉子がそれを聞いたとは考えにくい》と柴田氏は言うのだが、まさかそんなアホなレベルのことを問題にしているのではあるまい。問題は葉子ではなく岩吉の「自己」閉塞であり、続いて《「弱法師」における俊徳の幻想が級子に届かないのと同じく》と言うのも柴田氏の着眼がズレているのであり、ここでも問題は俊徳の自己「幻想」であり、それが級子に通じるか否かではない。

 《とくに最後に取り上げられている三島への視角は今述べたような斬新さがあるだけに、同じ構図をもつといえる『鏡子の家』や『鹿鳴館』なども取り込んで論を構築すれば、さらに説得力が高まったのではないかと思われる。》

 書評の結末まで飛んでしまったけれど、くり返しを避けたまでで大差あるまい。ここでは柴田氏の言うことに素直に従いたい。確かに別の作品を取り込めば、拙論に説得力が増すのはそのとおりだろう。しかし「絹と明察」は数ページで挫折し、「鏡子の家」は山田夏樹さんがヒグラシゼミで発表してくれたので読めたようなもので、三島の現代長篇小説はツマラナクて腰が引けるのだナ。ただ「鹿鳴館」だけは柴田氏が引いてくれているように、《ミシマはやはり小説よりも戯曲だ》と断言しているボクとしては恥ずかしい話、未読のまま数十年経ってしまったままでいる。「鹿鳴館」が刊行された時だったか、磯田光一(と記憶するが)の時評で結末の台詞を取り上げていたので覚えている。

 「サド侯爵」や「わが友ヒットラー」は1度ならずゼミで取り上げたものの、「鹿鳴館」はスルーしたまま今日に至っている。これだけは死ぬ前に読まねばならぬとは思うものの、さりとて読んで論に取り込んでみようという気はまったく起きない、拙稿の結論を当てはめるだけになだろうから。先般三島研究のトップランナーであるシュウメイ(佐藤)さんから新刊の岩波新書を贈られた(紹介したとおり)礼状に、三島にも(太宰はだいぶ前から)関心が無くなったと記したばかり。有名な「太陽と鉄」や「文化防衛論」などは読まずに終る(死ぬ)だろうナ、ますます関心が無くなっていく。『シドクⅡ』の「如是我聞」論で論じたとおり、〈強者の自己完結〉には出口が見出せないからネ。