【読む】千田洋幸さんの本(その4) 「山月記」論  浅野智彦  

 千田さんの近著を紹介していて、「山月記」論についても記すと予告しながら気付けば1ケ月、千田先生の「山月記」論を早く知りたいと期待していた学大卒の皆さんには待たせてゴメン! とは思いつつも、《一家に一冊》(殊に教員の家では)とも言うべき研究書なのだから、自分で買って読めヨと言いたいネ。事実中島敦論を書いたことのある(あるいは書いている)卒業生2人に個人的に勧めたら、1人が「とても勉強になりました。己の無知を知らされたので、まずはドゥルーズを読みたいと思います。」と言ってきたので苦笑したネ。千田さんの「山月記」論がドゥルーズの論の要約から始まっているためなのだろうけど、そんなに簡単にドゥルーズが読める能力があるなら、素晴らしい論文が書けるだろうヨ。千田さん自身もドゥルーズからの引用は程ほどにしつつ、それを分かりやすくパラフレーズしたり、註にドゥルーズの啓蒙的な解説書から引用しながら自説を理解しやすくしてくれている、そのくらいの配慮をしているほどの難物だからネ、ドゥルーズは(単行本は2段組みで4㎝の厚さだし)。

 千田さんがいつも以上に分かりやすく書こうとしているのは、先般廃刊された『現代文学史研究』(第29集)に掲載したものだからかもしれない(千田さんとは無関係の情報だけど、ボクは創価大卒の同人に以前ヒドイ目に遭わされて脱会していたので、「山月記」論は本書で初めて拝読した)。この雑誌の読者は学大と創価大の卒業生が主たるものだろうから、理解しやすく書いてくれていると感じた。それでも皆さんに伝わるように紹介するのはたくさん引用しなければならないから、自分の頭で挑戦してもらうほかないネ。

 

 ドゥルーズが「可能性」と「潜在性」とを対比させている概念を、上記の解説書が以下のように解説している。

 《可能性の論理をとると、新たなものを算出するという流れの側面が見失われしまう。(略)これに対して、力の潜在性とは、本質的に未決定なものである。(略)

 潜在的なものは、あらかじめ何であるかを描きだすことのできないもの、いいかえれば、現実化してしまえばそのあり方が変容してしまうもののことである。》

 この対概念を利用しつつ、千田さんは説く。

 《李徴にとって、虎への変身とは、未決定性と予測不可能性にみちた潜在性のちからに出会う経験であった。彼が自己の変身に理由を見つけられないのは、そこに、原因→結果という単純な因果関係を見いだすことができないからである。》

 これが千田論の核となっていると思うけど、これだけでは通じにくいだろうから、千田さんは蓼沼正美さんの「自己劇化」論の観点や「三四郎」論でも援用していた浅野智彦さんの書から、《自己はそれが物語られる限りにおいて、必ず結末逆算された(振り返った)形で選択・配列されるのであり、事実ありのままの記述ではあり得ない。》と引用したりして、理解が行き届くように配慮してくれている。

 自説を踏まえつつ、千田さんが以下のような兆発に対して、教育現場にいる(いなくてもいいのだけど)皆さんがどう対処するのか、尋ねてみたいものだ。

 《「なぜ李徴は虎に変身したのか」という旧式の問いは、「なぜ李徴は完全に虎になってしまう直前にこの自己物語を必要としたのか」という問いに置きかえられなければならないのだ。》

 《李徴の語りに虚偽や自己欺瞞を見いだす解釈、李徴に「反省的自己」の所有を求めつつその欠如を批判する読み方には、もう限界があると思う。》

 すぐには応えがたい挑発だろうから、まずは千田本を熟読してからジックリ考えてもらいたいネ。

 

@ 浅野さんの『自己への物語り的接近――家族療法から社会学へ』(勁草書房)は入手して読もうと思っているヨ。この本は以前サトマンが発表した時のレジュメにも記されていたと記憶する。学大では以前いた山田昌弘さん(現・中央大)の著名な本以外にも、野口裕二さんの『ナラティヴと共同性』(青土社)もとても面白かったナ。学大の社会科は上野和彦や藤井健志のような、学内政治に執着している愚物ばかりじゃないのだネ。 

 蓼沼正美さんの「山月記」論は未読ながら、この人は以前紹介した『超入門! 現代文学理論講座』(ちくまプリマ―新書)の著書で、この本は監修している亀井秀雄さんが文学理論を講義している体をとっていて、とても読みやすいので改めておススメ!