【書く】《知識人》対《大衆》 「他人のフンドシ(理論)」で論文を書く?

 金井広秋のことを記していたら、いつの間にか《知識人と大衆》という問題にズレ込んでしまったのは、つい最近優秀な若い研究者とのやり取りを引きずっていたせいだと気付いた。他の人には伝わりにくかったと思われるので、そのメール交換をコピペしておくネ。ボクが論文を書く時の根拠を問われて、敢えて言えば「吾が身が生きてきたものだけ」と記したら、それを突っ込まれたことから質疑が始まっている。

 

《質問》

「吾が身が生きてきた ものだけ」という感覚は、確かになかなかたどり着けない感覚かもしれません。それに該当するもの(なんでしょう?)と言いますか、そこまでの覚悟は、と言いますか。改め て研究姿勢についても考えていきたいと思います。ありがとうございます。
《応え》
ヒトに言ったことないけど、「吾が身」を一言で言えば「腐っても全共闘(タイ)」だけど、いろいろ詰まっているネ。 学部生の頃から吉本隆明の生きる(考える)姿勢に共感していたので、《知識人》に対する《大衆》(「大衆の原像」と言えば隆明風の言い方になる)という構図を言動の基本に置い ていたのだネ。 吉本風に言えば、早逝した父親(ボクにとっては祖父)の代わりに5人の弟妹の親代わりになって人生を全うしたオヤジが「原像」に当たるのだろうけど、定時制高校で7年間勤 めたことも大きいかな。

全共闘と言ったのは、闘争の頃の大学の《知識人》に対する失望があるからだネ。 だから自分の書くものは《知識人》の中で上を争う(他人には解りにくさを誇る)のではなく、できるだけ《大衆》にも分かるように書くことを心がけてきたのだネ。 テクスト外を読みに組み込むことを避けてきたのは、《大衆》にも伝わりやすさを意識していることもあるかな。 学生時代、周囲にマルクスレーニンを安っぽく語る活動家が溢れていたので、理論信仰するヤカラに嫌気がさしていたのも思い出されるネ。 「吾が身」はただ「吾が身」だけ、というところを自負しているということかな。
《質問》

たしかに「いろいろ詰まって」いますね。私なんかがそんな一言で語ってはいけないのでしょうが。先生の論文の文体に、人が感じられるのもわかる気がしました(これもそんな一言で語ってはいけないのでしょうが)。 勉強になります。ありがとうございます。

《応え》
70年以上生きてきたのだから、「いろいろ詰まって」いるのも当たり前だろネ。 詰まってないと文体がイイカゲンになると思う、文の体(身体)だからネ。 文体は難しいネ、作家で優れた文体を持っている人も多くないと思う。 研究者では稀有だし。

 

(後記)

 『シドクⅡ』の前書きで、《他人のフンドシで相撲をとる(論文を書く)のが恥ずかしく、苦手だったのだ。》と記したら、誠実な研究者を傷付けてしまったようで《どうせ関谷さんはボクなんか「他人のフンドシ」で論文書いていると見ているのでしょう》という手紙をもらってしまった。ボクとしては、己れの立ち位置を記したまでだったのだけど、以上のやり取りからもそれを察してもらいたいとも思い、コピペした次第。