【状況への失言】コロナ禍の生き方  二分法は危険  小池百合子は人の命より、自分のアピールが大事  森田健作は唯のバカ

 ユウ君が宇都宮出張ついでに、ふだん会えない仲間を含めた呑み部を計画しているのを記したけど、栃木県(教育界では特に)では出歩くことを自粛する傾向が強いので、とても呑み部には合流できないと伝えてくれた仲間もいた。栃木の教員では、他の地方にいる子供が帰省することを自粛させながら正月を迎えた、と教えてくれた仲間が2人いた(自ら言ってくれたので、アンケートをとればたくさんいるのかもしれない)けれど、それだけ安全策を取れば感染は免れることだろう。埼玉にも親しい仲間が、勤務先に感染者が出て以来自粛しているので、長いこと会えない仲間もいる。どうもコロナ対策には大きな温度差があるようだ。

 一方、長野の教員は、周囲があまりにも「コロナ警察」化して外出も見張られている気分になり、きわめて生きずらい状況だとボヤいてきた仲間もいるのも事実。早く上京したいとも叫んでいた(メールだけど)。ボク等釣り部の常連4人は、独身(ジャミラとは家庭内別居のボクも含む)をいいことに部活を楽しんでいるのはブログに記したとおり。老齢のボクを気づかい心配してくれる仲間も少なくないけれど、釣りは開けた空間でするから安全だし、呑む時以外はできるだけ距離をとって危険を避けている。先日の釣り部では酔いつぶれたカネシローとボクは、呑んでいた席に並びながらも頭を離して寝ていたヨ。先に別室で寝たアマッチとユウ君は、広い部屋の両端に離れて(5m)眠っていたネ。

 

 ともあれ結論から先に言えば、いつも言うとおり(善悪の)二分法は危険だということ。コロナに自粛対策をとるあまり、自らが「コロナ警察」にならないように自制することも大事だ。かといって戦争中の金子光晴(詩人)のように、反戦を貫いて町内の消火対策バケツ・リレーなどに参加を拒否するのも、不要な弾圧を招きかねない。無理に反発してマスクをしないなどという暴挙(トランプ的低能)は許しがたいけれど、己が自宅で自粛しているのだから他人にもそれを強いるという戦争中の(5人組のような)監視体制をなぞるのも愚かなことだと思う(長野県の例)。

 「不要不急」とは言うものの、要不要を言えば全ての行動が「不要」になりかねない。個人的にはジャミラとの闘争(まさに敵だ)に明け暮れしている者からすると、2ケ月に1度くらいは開けた海で(癒しの時間を)釣らなければ生きていられないのだナ。開高健だったかの言葉で言えば、「釣りは生きる源」というのはホントだ。学生時代からの友人のように、「時々山へ行かねエと心身が持たねエ!」と言う人も少なくないだろう。クラシック・コンサートが距離をとりながら再開されているのも、嬉しいかぎり。「人はパンのみにて生きるにあらず」で、パンだけではどうしても無理があり、趣味なしには生きられないというのがホントだろう。

 

 長くなったからいったん締めるけど、小池百合子が政権に自粛を迫るのは、決して都民の命を心配しているわけではない。風見鶏さながら、その時々の勝ち組の党や派閥に身売りして権力の座にしがみ付いているゲスだから、都民の命などどうなってもかまわないというのがホンネなのだ。政権に緊急事態宣言を強いたのは嫌がらせであって、自分が政権側にいれば平然とゴー・トゥ・トラベルやゴー・トゥ・ヘブン(呑み屋に行って天国行こう)と叫んでいるところだろう。埼玉県知事のように、人命を尊重することなど考えていないのが小池百合子という非人間だ。森田健作(千葉県知事)は唯のバカで、コロナ禍の中でもまた己の家を公用車で見守っていることだろう。