【ヒグラシゼミ】「ジッドとショパンと〈古典主義〉」  とても充実して刺激的

 大げさに言えば帰朝講演というイメージだったけど、難しい内容を比較的分かりやすくまとめてくれた印象だった。博論の一部は昔ヒグラシで2度発表したものも含むそうだけど、今回は古典主義(とロマン主義)に焦点を合わせてくれたので、文学研究の参加者には格別刺激的だったと思う。意外に質問が多かったのもそのためだったろう。

 最初のうちは誰も質問しなかったので、ボクの方から一番理解しがたかったことを尋ねた。それは古典主義を言いながらも、同時代にストラビンスキーやプロコフィエフが主張し・作品も発表した「新古典主義」についていっさい触れられていないことだ。ジッドが「日記」その他でもまったく言及していないとのことだけど、それが不可解だ。 

 20世紀最重要な曲と言っていい・画期的作品である「春の祭典」を発表したストラビンスキーではあるけれど、後には先祖返りのように「新古典主義」を標榜しつつ、形式を重視した作品作りにいそしむようになった。その経緯はともあれ、ストラビンスキーの方向転換を横目に見ながらショパンの古典主義を強調するジッドが、新古典主義に触れないのは意識的な無視のように見えてならない。その理由は何か? 予想どおり明快な応えは得られなかったから、さらに調べてもらってから教えてもらいたいけれど、議論を重ねているうちに分かってきたことがある。

 どうもヨーロッパ(西村クンの言う)の古典主義が、ボク等日本人のイメージする古典主義とは異なるということが判明してきた。レジュメにもあるとおり、

ヨーロッパの古典主義は17世紀の類14世の時代のラシーヌモリエールの文学を指すようだけど、それがボク等には想像しにくいのだネ。そこがボク等には不明確なものだから、ショパンに古典主義を見出すジッドを評価する西村クンの見解が伝わりにくいのだネ。それにしてもレジュメの1ぺージにある「結論」、

 《ジッドは、少なくともショパンに関する限りにおいて、〈古典主義〉を

 ・ 〈ロマン主義〉的なるものの抑圧、またはそれに対する勝利

 とみなしていた》

と言われると、ストラビンスキー等にも当てはまるようにも思われるのでスッキリしない。もちろんジッドの場合は周囲の〈ロマン主義〉的演奏に対する〈古典主義〉である一方、ストラビンスキーの場合は自身の〈ロマン主義〉的作品に対する反動としての「新古典主義」という差異は明瞭だ。

 西村クンもゼミ後のメールで、たくさんの貴重な刺激を与えられたので、さらに再考・検討したいと言ってくれているので、ボク等もヨーロッパの芸術史などを勉強しつつ、スッキリできる時を待とう。

 

 〈ロマン主義〉に対する反動という意味での〈古典主義〉、という文脈で発言したのだと思うけど、ミチル姐さんが萩原朔太郎の名を例示した議論も面白かった。そもそもボクが明治後期から大正初めころの口語自由詩の試行(白樺派周辺の白鳥省吾など)と、大正終り頃の民衆詩派とを混同していたために議論の進行を妨げてしまったようで申し訳なかったけれど、『月に吠える』(大6)『青猫』(大13?)で口語自由詩を確立した朔太郎が、昭和期に入ると文語詩に戻るような「反動」的な言動をするようになる、ということが連想されるという発言だった。ミチル姐さんは『氷島』(昭9)に集約される朔太郎の文語詩にまで言及したわけではないけれど、そして口語詩から文語詩に戻ること自体がすなわち〈近代〉から〈前近代〉に後戻りしたとはいえないものの(という観点では原子朗高橋世織の論がある)、西村クンの発表が広くて深い問題を提起した裾野はまだまだ広がりそうだ。

 (キリが無いのでこの辺で。)