【読む】中西進は凡庸?  野口英世の《自己顕示欲》  小森陽一

 朝日新聞の「文化・文芸」欄の「語る――人生の贈りもの」が、中西進を取り上げているので読んでいる。デザイナーとか関心の無い人物の場合はまったく読まずに済ませることもあるけれど(面白い連載は保存してあるのも数人いる)、中西はいちおう文学なので読んできたわけだけれど、いっこうに面白くもないまま連載が終ろうとしている。実にツマラナイ凡庸な「人生」を読まされてきて、時間を浪費したような虚しさを感じているところだ。

 「令和」の名付け親として登場するまでは、名前は知っていたものの「万葉集」の研究者とは初耳だった。秋山虔先生のスゴさに接したお蔭で中古・中世の文学については多少知識も興味もあったけど、万葉は学部1年生の時に稲岡(耕二?)センセイに「不可」(不合格)を頂戴したせいもあるのか、一段と関心が薄らいでいた。前にも記したけど、授業にあまり出席しなかったから正解が分からず、民のかまどから「煙立つ見ゆ」を天皇の領土宣言だと書いたら、センセイのご機嫌を害したらしい。

 最近は品田悦一さんから『万葉集の発明』や『万葉ポピュリズムを斬る』その他をいただいているので(嬉しいことに前橋高校の後輩)、万葉集についても少々知識が付いたと思っている。中西の連載の第1回でも見出しに記されているとおり、「万葉集には平和の力」という観点が中西の捉え方であり、「令和」の名付けもそこから発しているのだろ。ところが前にも書いたとおり、品田さんによれば「令和」に関わる部分は《平和》どころか、藤原氏による長良王暗殺事件というキナ臭い背景が隠されているという。中西はそれが読めなかったので、ノンキに《平和》な時代と勘違いしたのだろう。

 学園闘争(中西の立場で言えば「紛争」だろうけど)に対してもボケた感想しか語っていないとおり、「紛争」時代の大学人にボク等が浴びせた「専門バカ」の典型で、世界の動きにはまるで関心が無いのだネ。まことに凡庸な人生というほかないけれど、研究が凡庸かどうかは内実が分かる人に任せる以外にない(「闘争」時代には、勢いで研究まで否定した仲間もいたハンセイに基づく)。

 

 そもそも「令和」の命名者がぐに判明するとは、本人が自己顕示欲でバラしたからだろうけど、ブログを記しながらBSプレミアムの「フランケンシュタイン」という番組で、野口英世を取り上げているのを見ていた。《自己顕示欲》と言えば、野口が異常なほど強烈だったとは知らなかったナ。思わず財布の中の千円札を確認してしまったヨ。札に印刷された頃は、まだ野口神話が否定される前だったのかな? 次の新しい札が用意されている今になったから、《自己顕示欲》に振り回された野口の悲喜劇が解禁になったのかな?

 一度黄熱病研究で認められたので味を占め、自己承認要求に駆られて未熟なままの研究を次々と発表した(がった)ものの、ウィルスを見ることができない段階の顕微鏡だったので、現在の見地からすれば無駄な(時には有害な)研究としか呼べないそうだ。野口が「開発」したワクチンの犠牲者も出たとのこと。その点では可哀そうながら、時代の制約によって喜劇を演じてしまった人というほかない。再放送を見てもらいたい番組だけど、現在の研究者が最後に言った「今では医学史からは消えた名前で、物語の人物にとどまる」という切れ味鋭い一言は忘れがたい。

 文学研究では、中西なぞ比べようもない《自己顕示欲》の存在がいる。一度「こころ」論がバカ受けしたため、調子に乗って奇異な言説・論文を発表していた小森陽一だ。乗りすぎて小説まで発表したと聞いた時には、開いた口がふさがらなかったネ。  ともあれ『シドクⅡ』に収録した太宰治「春の枯葉」論で、その恣意的な論法を叩(たた)いておいたからご一読を!

(「春の枯葉」では、その後俊英・松本和也さんの論が出ているのでおススメだけど、拙論に対しても建設的な批判を付してもらって感謝ながら、小森論も一言のダメ出しで済まされている。)