【近況】定時制高校教員時代のイチロー

 先般はユウ君が宇都宮に行く機会がありながらも、コロナ自粛が強まって飲食店のラストオーダーが早まったため、呑み部が実現できなかったのはカワイソーだった。それでも独りで駅の餃子店にすべり込み、餃子で地酒を楽しめたのはブログで紹介したとおり。

 一昨年はまだコロナ以前だったので、ボクは那須の帰りにツクホーシ・イヤラシ・アマッチと4人で緊急呑み部を楽しむことができた。那須へは入院見舞いに行ったのだけど、病人は定時制高校教員時代の生徒だった人で、ボクより10才以上の年配だった。見舞ってから間もなく亡くなってしまったけど、生きているうちに会えてよかった。

 先日、ご家族から故人の思い出を書くように求められたので、以下の文章をものした。

 

   宮岡パパには脱帽            関谷 一郎

                     (元上野忍岡高校定時制教諭)

 

 宮岡さんとは奥様を含めたお付き合いだったので、お二人を区別するためにパパとママと呼び分けていた。ここでもその呼称で書かせてもらう。

 

 パパには何ごとにおいても脱帽だった。今年六度目の丑(うし)を迎え、吾ながら脱毛の激しくなった頭で思い出されるパパは、今でも私よりはるかに若々しいままだ。最後にベッドに寝ていた時も、白髪ながら脱毛が少なめで顔のシワもなく、老人らしさに欠けていた。でも肉体は「まだ」だったけど、脳の方は「もう」終りが近づいていたようで、記憶が混乱しているようだった。それでも見舞客と嬉しそうに話している姿を見ると、「まだ」のような気がしていたのだけど・・・ 

 

 パパに脱帽するのは見た目の若さに限らない。何よりもその精神の若々しさだったけど、それは最後まで変らなかったように見えた。そもそも四十代で高校に入学するだけでも脱帽なのに、卒業後にも大学に進学するのだからチョー脱帽だ。それも私の苦手な数学専門なのだからハナシにならず、ハナから脱ぐ帽子の用意など無い。よっぽど脳が柔軟で、若々しかったのだろう。

 

 精神の若さを語ろうとしながら、話が脳の若さにそれてしまった。向学心と言えば精神の若さだろうけど、日常を離れた抽象的な学問である数学に関心を抱き、対応できてしまうのはトシを超えた脳の若さあってのゆえだろう。数学脳では比較するまでもなく優劣がハッキリして脱帽だけど、精神の若さでは未だに卒業生との付き合いを楽しんでいる身なので、パパに負けてばかりではないとは思う。でも四十過ぎてからも、十代の青年たちと一緒に勉強できたパパのナイーブな心には絶対及ばない、ホントに脱帽だ!

 パパの精神の若さは、その観念的なところにも現れていると思う。四十過ぎても実生活を重視せず観念中心に生きていた三島由紀夫は、二・二六事件青年将校たちの狂信性にシンクロしてしまい、喜劇にも見える悲劇を演じて果ててしまった。パパは観念的ではありながらも、生来の平衡感覚によってチェックされていたので、暴走することはまったく無かった。子供に勧められて(?)禁煙してしまうのも、パパが良い意味で観念的なためだったと思う。「煙草は身体に悪い」とは誰しも分かっていながら止められないものだけれど、パパは頭で考えて悪いとなれば止めることができたのだ。生理(悪習)を観念(意志の力)で抑えることができた、というわけだ。

 ところが、ある日チョッと落ち込んで見えたので理由を尋ねたところ、「息子に禁煙を破ったところを見つかって落胆させてしまった。」という返事だった。息子さんは友達に、「自分の父親は禁煙を果たしたのだから、君も頑張れ」と励ましていたのだそうだけれど、目の前で禁煙したはずの父親が煙草をふかしていたのだから、心底ガッカリしたものと思われる。息子を裏切った形となったパパが、他人が理解できないほど落ち込んでしまうのは、「自分の悪は許せない」という観念が強力な故だ。

 「そうあるべきだ」(禁煙は守るべきだ)という自己像を自ら破ってしまうことが許せないのは、パパが人間は頭(観念)で律することができる、少なくとも自分はできると確信して生きていたからに違いない。煙草以上に禁じがたい薬物を例にすれば分かりやすいように、人間は頭で肉体(生理)を抑えることは簡単ではないものだ。それでも自分だけは抑えることができると信じていたところがパパの観念的な故であり、そういう自分を(結果的には息子までも)裏切ってしまったことが許せないのがまた観念的(ピュア)なのだ。

 

 そもそも東京での生活に問題があったわけでもないのに、いきなり栃木の田舎に移住して農業に励みだしたのは、パパが頭(観念)で考えて正しいと思う道に生きる人だからに違いない。パパもパパなら、それに文句も言わず(?)同調してしまうママもピュアな人と言わざるをえない。おかげでその頃は宇都宮大学に勤務していたボクとの交流がしやすくなったのは、嬉しいかぎりだった。それにしてもボクが記憶する限り、定時制在籍中のパパにはキリスト教の信仰は無かったものと思う。しかしその頃には信徒になっていて、ボクがリンパ腺のガンで入院していた時に見舞ってくれた時には、ベッドの傍で祈っていたパパの姿が忘れがたい。制癌剤治療のために食欲を失っていたボクが、病院の夕食を代りに食べてくれるように頼んだ時に、食前の祈りをしていたのだネ。

「溺れる者はワラをもつかむ」とは言うけれど、溺れて宗教に救いを求めるケースは少なくない。そういう場合は概して新興宗教が多いように思うけれど、パパがキリスト教を信じるようになったというのは溺れたのではなく、身近な人からキリスト教の理念を伝えられたのがきっかけだったのではないか、と勝手に想像している。理念を頭(観念)で理解した結果として信徒になったものと思う。

 

 栃木に移住した土地の身近な人々だったのか、教会で知り合った人々だったのか、一度ボクが住んでいた宇都宮の官舎に一緒に遊びに来たことがあった。その人たちと共に何かの反対運動をしていたようで、ボクにも反対の署名を求めたかった素振りだった。でもボクが賛同しないと勝手に思い込んだのか「セキヤさんはウヨクだから・・・(署名してくれないだろう)」と言いよどんでいたのを覚えている。右翼とウヨクと表記したのは、進歩的な活動をしている人たちが、同調しない人たちを指す定番の言葉を意味させているからで、ボク等も全共闘運動をしていた学生時代に、クラスのストライキ反対の人たちで民青(共産党支持の学生)以外の学生をウヨクと決め付けていたものだ。

その時は家内が傍にいて、「この人は全共闘だったのヨ」とか言ったものだから、パパもそのまま黙ってしまった。ボクは定時制教員だった頃には、教員にも生徒にも自分が学生運動をしていたことは敢えて言わなかったけど、気持はいつも「腐っても鯛(全共闘)」と思っていたから、生徒のためにならない教員に対して批判ばかりしていたものだ。

 当時定年制のなかった都高校教員組合は組織率が高かった(九三%超)ために自浄能力を失っていたため、定時制教員の中にはヒドイ連中も少なくなかった。指導ができないために結果的に生徒を犠牲にする老人や、しじゅう生徒を自習にさせておき、自分は経営している塾のための予習を別室でやっている教員など、悪質な税金ドロボーが少なくなかった。ボクも日教組の組合員だったけれど、ダメ教員を守るのではなく生徒を守る立場で反組合的な言動をくり返していたものだ。

 ある時の職員会議では、定年過ぎの教員は担任をさせないという暗黙の了解を批判し、「担任ができないということは指導ができない、つまりは教員の資格が無いということだから辞職すべきだ。」と断言したものだから、教員一同亞然としていたものだ。ハナシの分かる教頭がその場を収めたものの、信頼する同じ国語科の先輩からはたしなめられたのは仕方なかった。

 話がボクの昔話になってしまったけれど、知らぬとはいいながらパパがボクのことをウヨク呼ばわりしたのは、共感する反対運動をしていたために、つい観念的に暴走してしまったものと思われた。呼ばれたその時も、ボクは怒らずに「パパは観念的だナ」と受け止めたのを今でも忘れない。「観念的」とは、人間がピュア(純粋)だという意味に他ならない。ピュアなままで七十数年の人生をまっとうする人間は、いつの時代にも稀なものだ。見た目を抜きにたとえてしまえば、天使と言いたいくらいのものだ。

 

 パパのご冥福を祈るのみ。

 ママ、お疲れさま!