【読む】深沢七郎「楢山節考」  朝日新聞の(進歩的側面の)弊害・限界  三島由紀夫(VS)石原慎太郎

 メイさんとの「論争」はまだ続いているのだけど、察したとおり自分の意見は公表できないというので、争点の1つである三島由紀夫の考え方もからめながら「楢山節考」をおススメしたい。在職中は新潮文庫深沢七郎の演習をやったことがあるけど、今日の朝日新聞(夕刊)の「時代の栞」という週一の連載で「楢山節考」が取り上げられているので、未読の人には一刻も早く一読してもらいたい。明日もし事故死したら読まないままで生涯を終ることになるからだ、それだけスゴイ傑作だ! 文庫に収録されている「南京小僧」も同趣旨の短編なので、これも絶対おススメ! 学大名物の演劇集団「貘」の代表だった飯野クンが、卒後阿佐ヶ谷で立ち上げた劇団「阿佐ヶ谷南京小僧」の命名深沢七郎に由来しているはずだ。学大赴任して間もなく「南京小僧」を講義で取り上げたのを覚えているけど、たぶんその時の感銘から名づけたのだろネ。

 

 ともあれ「楢山節考」は姥捨ての話で、息子の辰平は母を捨てに行くのを延ばしたいのに、おりんの方は早く行きたいばかりに、自分で前歯を石で割って老人くさくなろうとする。嫁等に急かされながら辰平はおりんを背負って山に行くと、雪が降る。雪が降ると寒さで眠るように死ねるので幸運とされるので、辰平は喜ぶ。

 これを当時の朝日新聞は批評して、《家族のために喜んで犠牲になる人間》《絶望とアキラメのなかにとどまっている》と書いたとのこと。まことに朝日らしい批判の仕方で、全身の力が抜けていきそうだ。100%分かってないおバカぶりで、産経新聞かと思ってしまう。もっとも進歩の朝日と反動の産経が、文学の記事になると共々レベルが低いと思えば、いたく納得がいくというもの。どちらも政治的価値で文学を評価するので間違いばかり、ということだネ。読売も似たようなものだろうけど(毎日はほとんど見たことがないのでスルーする)。

 今の朝日もさして変わりないのは、こと文学の分野になると見る目がない。書評欄で取り上げる書物のレベルは高いとも言えないし(そのせいもあって数年分の書評欄が未読のまま段ボールに入ったまま)、関谷一郎という人の本を3冊とも取り上げる力量がなかった点でも、レベルの低さを証明している(笑、ではない! 研究書は書評欄でほぼスルーされているけど。)文芸時評家も昔の江藤淳・最近の島田雅彦のように際立った人もいれば、小森陽一(や蓮實重彦?)のように共産党というだけで採用したお蔭で、同時代の文学が理解できていないのを露呈していた時もあったほどだ。現在の小野正嗣さんは海外文学ばかり取り上げるので、現在の日本文学の傾向が伝わってこない。

 

 さて「楢山節考」は第一回中央公論新人賞を受賞したのだけれど、審査委員の1人が三島由紀夫だったことを新聞記事で思い出した。当時の朝日の記者とは正反対で、さすがに三島は見る目がある証左だろう。同世代の吉本隆明も言うように、実は三島は極めてモダンな人で、そのせいか真逆な土俗的なものに惹かれていたのだネ。横尾忠則の初期グラフィックに感嘆していたのもそのせいだ、という見方もある。

 さすがに三島は、朝日新聞(の記者)のように文学に政治の問題を持ち込むような愚かなことをせずに、ストレートに文学の核心に迫って評価している。政治(現実)の問題を文学の問題に密通させるようなことをしない、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込んで実際にクーデターを起こせる(起こそう)などと本気で考えるほどバカじゃない。政治の世界にハマりこみながら、自分がまだ文学者だと勘違いしていた石原慎太郎と同列にしては三島がカワイソー!