【読む】やまなし文学賞  選者の勘違い  山田俊治と井上隆史の比較

 やまなし文学賞は昨秋ブログでも予想したとおり、シュン爺(山田俊治)の『福知桜痴』(ミネルヴァ書房)に決まった。手間ヒマのかかるモノスゴイ研究であることはくり返さないけど、シュン爺に改めて「お疲れさま!」と伝えたい。ただ気になるのは、井上隆史『暴流(ぼる)の人 三島由紀夫』(平凡社)が同時受賞したことだ。今どき流行らない《評伝》の2書が評価されたのは歓迎するものの、この2書を同じようなものとして認めて良いとも思えない。

 《評伝》というと、学生時代に読んでいた江藤淳が、イギリスで発達したジャンルで日本にはその伝統が欠けている、というようなことを書いていたのを覚えている。自分には書けないジャンルだと思いつつ、その後江藤が『漱石とその時代』で実践していたのでナルホドと感心したものだ。俊治さん(山田姓は多すぎてピンとこないので)の書は、漱石のように全集はじめほとんどの資料が出版されているのとは異なり、あちこちの図書館などを巡りながら資料を読みこんだ成果で、前代未聞の業績だと断言できる。一方の井上さんの書は(入手していないので詳細は知らぬままながら)、三島記念館に秘蔵されている資料を読み込む特権を持つ者のみが書ける《評伝》だと思われる点で、俊治さんのものとは大きく異なるだろう。俊治さんのは開かれた場で競い勝った感じの書だけれど、井上さんのは閉じられた場で特権を駆使した結果に止まるという印象。

 

 それに選者の中島国彦関川夏央・兵藤裕己の3人が、口をそろえて「◎◎研究の第一人者」という言い方をしているのも気になる。やまなし文学賞の選者くらいの位置で、研究者をランク付ける立場にいると思うのは、とんでもない勘違いでしかない。兵藤さんが俊治さんを「近代の新聞・雑誌研究の第一人者」と位置付けているのは説得力を感じるけれど、俊治さんばかりそう評価されると不快な思いをする人も思い浮かんでくるというもの。しかし中島・関川両氏がそろって井上さんを「三島研究の第一人者」と記しているのはウカツとしか思えない。秘蔵資料を自由に参照できるもう1人の特権者、佐藤秀明さんの存在を知らないのだろうか? 

 そもそも失礼ながらこのお2人が三島研究に通じているとも思えないにもかかわらず、不用意に「第一人者」などという呼び方をすべきではなかろう。むかし近代文学会の編集委員をしていた際に、委員会席上で佐藤秀明さんをプッシュしたくて三島研究の「第一人者」と言ったところ、委員長の山田有策さんはじめ委員の皆さんから不適切な表現だとたしなめられたのを忘れない。三島記念館の秘蔵資料を使ってシュウメイ(秀明)が別の《評伝》をまとめた時に、それと比べた上で井上さんをより高く評価するのならともかくも、手放しで「第一人者」などとノーテンキな言い方をすべきではない。

 

 中島さんの選評によれば、井上論は「虚無」「セバスチャン・コンプレックス」「全体小説」をキーワードにしてまとめたということだけれど、3つとも三島論としては今さらという印象で新味を感じない。極論すれば、前著『三島由紀夫 虚無の光と闇』(試論社、2006年)の延長で、新発見の資料を元に作家像を膨らませたという以上に、何を評価すれば良いのだろうか? そのような観点が選者には欠けていたからこその選考結果なのだろうけど、前著の目次を見れば一目瞭然のように、「新資料」「創作ノート」「草稿」などの言葉が目立つところが井上さんの特色だろう。この線上で今度の書が達成されたのは分かりやすい。個人的な好みを前景化して言えば、細緻なテクスト分析が欠落しているのがもの足りない。シュウメイの論にはそれを読む楽しみがあるので、ケチを付ける喜びも味わえる。

 もちろん井上さんの前著には、「輪廻説と唯識論の問題」を論じた「豊饒の海」論のように、余人には及び難いほどの資料理解力を見せ付けるものもあり、それが井上さんの強みと言えよう。受賞のコメントで井上さんが故・野山嘉正さんという恩師に謝意を述べているけど(俊治さんが恩師として故・紅野敏郎さんに謝意を捧げているのも、今回の《評伝》という共通性と呼応しているようだ)、井上さんの弱みも《調べる》ことはできても《読めない》人だった野山さんの指導の結果のように見えてしまうのも、やむをえないのかな。師匠を超えることを目指しながらも果たせないのは、いずこも同じなのだろうけど。