【読む】藤井貞和  関礼子

 このところヒグラシゼミでは面白い現代小説を読む機会を与えられ、ゼミ後も充実した議論を楽しませてもらっている。イイ老後だネ。【読む】欄が渋滞気味なのは自覚している。もちろんゼミのためだけではないけれど、紹介ということではないものの(出版がだいぶ前のものだし)読書報告の意味でも取り上げようと思っていた本について、書こうとはおもいつつも果たせないままの状態が続いている。

 たとえば藤井貞和さんの『日本語と時間 〈時の文法〉をたどる』(岩波新書)。有名な書ながらも、キチンと読み始めたのが去年だったと思う。内容は2012年の学大の学会の際に藤井さんが講演してくれた時にサワリだけは聴いていたのだけど、専攻分野が異なるというイメージが先行したためか、読み込むのが遅れてしまったというかな。

 助動詞「き」と「けり」との差異は、ボクが高校生の頃から教えられていたことだと記憶するけど、いつからかこの違いがむやみと強調されるようになっていたので驚くことが1度ならずあった。何を今さらとは思うものの、引用文の藤井さんの見事な現代語訳を読むと、なるほど2つの助動詞が効果的に使い分けられているのが分かって面白い。さすがだネ。

 でも藤井さんは時に調子に乗って逸脱しているようにも思えてしまう独自の文法的把握があって、よく勉強しているのは伝わるけど文法の専門家に訊いてみたらやっぱりオカシイようだ。具体的に疑問の箇所を上げようと思っていたけど、メンドーになってきたので控える。それでも「時間」は文学テクストを読む際のキイワードでもある点から見ても、とっても役立ち面白い本だから読まないと損するヨ。

 

 近代文学会の編集委員をやっていた時、同じ委員だった関礼子さんから出たばかりの『女性表象の近代 文学・記憶・視覚像』(翰林書房)を頂戴したのだけれど、レベルの高い研究者であることは伝わっていたものの守備範囲が違い過ぎるので、「すぐには読めなくても、いつか必ず読みます」とお礼を申し上げた。偽りのない考えで、いずれ読ませてもらうだろうと思いながらも、10年が経ってしまった。今年に入ってだったか、何とか読み始める余裕ができた。

 とはいえ一葉の専門家なのでこちらの関心から外れすぎている上に、論文には映画やメディアがらみのものが多いので、近づきがたいこと限りなし。それでも気を取り戻して「一葉『紫清論』への一視座」というのが面白そうなので読んでみた。同時代から続いていると思われる紫式部清少納言との比較なのだけれど、興味をそそられるではないか。少納言が落ち目の中宮定子に忠節を貫いたのは周知だろうが、明治期にはそれが「貞女」として利用されたというのも苦笑が洩れるが興味深い。さて一葉は紫派だったか、清女派だったか、気になる人は関さんの本で確認するとイイね。

 その後は序章に戻って読んだけど、序章が長いのは全三章(論文15本)の解説にもなっているので助かる。いきなり先般『身体の零度』の三浦雅士と比較した多木浩二や、昔から本やテレビで新しいことを教えてもらった美学者(?)・若桑みどりの名前が出てくるし、誰でも知ってる鏑木清方や知った時に画力に驚いた小林清親という日本画家も出て来るので、まんざら本書に拒絶されているわけでもないナとは思えた。

 しかし第三章の映画の話になると、どれも見たことないものばかりなので、本論からは拒否されている気持になるネ。いずれにしろ時々ハードルを乗り越え、ツマミ読みしたいと思っているヨ。

 

 ちなみに「著者略歴」に《1949年、群馬県に生まれる。》とあるのはボクと同じなのだネ。「あとがき」に中央大学国文科の教員への謝意が付されているけど、当時専門分野も近く自分より年長にもかかわらず、関さんを招聘した宇佐美毅さんのお手柄を称賛するブログを記したことを思い出したヨ。